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ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(上)=ある2世の不思議な体験=「地獄(カニエテ)で」死んだ仲間の供養を」

4月9日(水)

 【リマ発】ペルー移民の歴史は、七九〇人の日本人移民を乗せた第一期移民船『佐倉丸』がリマの北方にあるカジャオ港に到着した一八九九年四月三日に始まっている。南米初となったこの移民船に乗り込んだ二十歳から四十五歳までの夢と希望に満ち溢れた移住者たちは、その期待に反して苦渋と絶望の生活を送った。その中でも最も悲惨な運命を辿ったといわれるカニエテ耕地で志なかばに倒れた兵どもの夢の後を訪ねた。

 リマから約三時間、パンアメリカン・ハイウェイを南へひた走る。砂漠の荒涼たる風景に飽きた頃、突如として緑が目に飛び込んでくる。
カニエテ耕地―。ペルー移民発祥の地であり、この弛に配耕された移住者たちは幾多の辛酸を嘗めた。第一期移民の約半数が一年を待たずに亡くなったという事実を見るまでもなく、その凄絶な耕地生活は今も語り継がれ、ペルー日系移民にとってこの弛は今でも特別な意味合いを持っている。
 ペルー日系人協会が年に二回参加者を募り、この地を訪れる際に必ず立ち寄る場所がある。
カサ・ブランカ日本人墓地である。この墓地はかつて日本移住者たちの集団埋葬地であった。二十数年前、この墓地に門や塀を建設するために行った掘削作業中に無数の人骨が発見されている。
墓地はサトウキビ畑の緑とは対照的な土色の丘陵地帯にあり、青い空に白く聳え立つ慰霊碑「無縁塔」が太陽に照らされ光っている。
「本当に苦労したんですよね。最初の頃の移民は」慰霊塔を見上げながら、ある二世が口にした。父母や同胞が受けた艱難辛苦を自らがこの地に立ち、声に出すことによって、安らがせるかのごとく。
彼が若い頃、アメリカにいた時に体験したカニエテ耕地にまつわる話をしてくれた。
 「非常に不思議な体験をしましてね。それから私にとって、カニエテは特別な土地に感じるのですよ」と、彼は話し始めた。
    ■   
 若い頃、アメリカの大学に建築を学びに留学していた彼は卒業時に両親をアメリカに招いた。カンザス州を中心に親子水入らずで旅行し、ある街のホテルに飛び込みで宿泊した。
 その夜、両親と外で夕食を済ませて帰ってくると、他の部屋の日本人が会いたいと言っている、と受付で告げられた。
 「おかしいな、と思いましたよ。誰も私たちがそこにいるのを知らないわけですから」。
 誰だろうー、そう思いつつ会ったその日本人は元ペルー移民であった。現在アメリカに住んでいるのだが、現在旅行中でホテルの宿泊ノートに記帳する際にペルーの日系人が宿泊していることを知り、ーその名字が自分の故郷に多い名前だったのでー、懐かしくなったのだという。
 「その日本人はカニエテ耕地から逃亡して、アメリカまで来たというのですよ」。
 彼と両親はホテルのレストランでその日本人の話を聞いた。
 「十代の頃カニエテに入植し、地獄のような思いをした。友人がマラリアで次々と死んで行った。次は自分かと思いながら、穴を掘った。逃げた。必死の思いでアメリカ行きの船に乗り込んだが、途中で降ろされ、パナマ運河建設の仕事をやった。なんとか陸路でアメリカまでたどり着いた。あれからもう四十年が経つー」。堰を切ったように話すその日本人の話に三人は時も忘れて聞き入ったという。 
 「その日本人はペルーに心残りが一つあるー、というのですよ。カニエテで埋めた友人たちを弔ってやりたい、そう言って泣くのですよ」。
 彼はそれからペルーで建設会社に就職し、その約二十年後に日本人墓地の門や塀を建設する仕事に関わることになる。掘り起こした地面から、多量の人骨が出てきたー。
 「そのアメリカで会った彼が私にその仕事をさせたんじゃないかー、そう思うと本当に会ったのかどうかも疑問に思えてくるのですよ」と話して彼は無縁塔を見上げて笑った。
    (堀江剛史記者)

■ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(上)=ある2世の不思議な体験=「地獄(カニエテ)で」死んだ仲間の供養を」

■ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地=中=一年で半数以上が病死=「棺桶が間にあわない」

■ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(下)=誇りとルーツを見直す場=ペルー日系人の心の故郷

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