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消えなかった日本語教育=戦中、戦後の日系社会混乱の中で(5)=「ANDES」極秘裏に閲覧=上新さん=養蚕小屋で教えた日々

12月16日(火)

 一九四五年八月一日。バストス市(SP)郊外のモンテアレグレ移住地で青年団発行の会報、「ANDES(アンデス)」が産声を上げた。B5判で手書きによる五十ページほどの小冊子で、子弟の日本語教育を目的にしたものだった。
 『本誌は絶対に外人の目に触れざる様に』、『一覧後は、特に保管者の許可なき限り貸出は許さず』などと朱書きで注意書きが付され、閲覧は極秘裏に行われた。太平洋戦争終結前後の奥地で、戦勝派と呼ばれた人たちの心理の移り変わりをたどることができる。
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 上新さん(八一、福岡県出身)=サントス市=は家族七人で三三年に移住。四〇年に、同地に自作農として入った。約四十世帯が居住、綿作などに従事したという。「敵性国民になった日本人は周囲のブラジル人たちに馬鹿にされるようになった」。
 移住者の結束を固めようと、四〇年代初めに青年団が結成された。団長に八木秀典氏、副団長に長尾美津男氏が就いた。旧バストス連合青年会主催の講習会に代表者を派遣、「神国日本」の精神思想を持ちかえっては、団員に伝えた。 文化担当だった上さんは、会報づくりを思い立った。以前住んでいた平野植民地で会報が発行されていたことにヒントを得た。
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 「南米の高峯アンデスに注ぐ雨は一歩を書して一方太平洋に走り、他方又アマゾン流域をなして延々幾千キロ遂には大西洋の大海原に合する。その間幾多の障害に逢遇するであろう」(原文のまま)
 創刊号の巻頭にはそう、綴られている。艱難辛苦に耐えるブラジル移民の姿を象徴させた。長尾副団長は在伯邦人の使命について論述。「唯一の奉公は優秀なる青少年等を陛下に御還しする事のみである。そのためにはまず、日本語教育より始めなければならない」(原文のまま)と訴えた。 上さんも故東郷平八郎元帥の歌を引用、「大和魂」を鼓舞した。「世界人類の為貢献出来得べき人物の養成に努力されん事を切願す」(原文のまま)。自身、養蚕小屋に子供たちを集めては、日本語を教えた。修身には、特に力を注いだ。
 創刊から二週間ほどして、終戦となった。八月十五日、上さんは農作業に励んでいた。日本が負けた、と町の人から伝え聞いた。が、直後に戦勝ニュースも入ってきた。「負けたとは思いたくないから、戦勝ニュースを信じた」。
 翌九月号で、青年の指導者たちは日本の敗戦を信じるものを糾弾。「祖国不動の信念」を持って、「デマニュース」に惑されないよう啓蒙している。戦勝祝賀記念と銘打った運動会などを企画。多額の寄付が集まったという。
 上さんが四六年二月に、リンスに移転するまで、会報の論調には変化が見られない。「今思えば、馬鹿みたいだけど、真剣でした。信念ですから」と照れ笑いを見せる。その後、会報が何号まで出たかは、分からない。
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 日本との音信が戻り、手紙で敗戦が知らされても、上さんは全く意に介さなかった。が、仲人の川口勝さんが四〇年代末に一時帰国し、焦土の跡を見てきたことでようやく、心が動いた。
 サントスには五六年に転居、三十年間、南伯農協に勤務して定年を迎えた。現地日本人会の万年会長と言えば、同氏のことだ。サントス日本語学校返還運動の急先鋒としても知られる。
 「学校は敵性資産として国によって凍結されたもの。我々、日系人の手に戻った時こそ、私の終戦です」。上さんの「戦争」は、まだ続いている。おわり。
     (古杉征己記者)

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