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残党の中で友情育み=ビアジャンテ倶楽部新年会=50年以上続く伝統=参加者減も再会喜ぶ

2006年1月17日(火)

 ビアジャンテ倶楽部(橋浦行雄世話人代表)の新年親睦会が十四日午前十一時から、サンパウロ市内の万里食堂で開かれた。五十年以上続く「伝統」の新年会。今年は十一人が会場を訪れ、仲間の元気な姿に再会を喜び合った。
 昨年の同会の出席者は十六人。この一年で四人が亡くなったという。冒頭、橋浦世話人は「年々参加者が少なくなってくるのは、やむをえないことですが、一人でも元気なうちは顔を合わせましょう」とあいさつ。その後、物故者に一分間の黙祷を捧げた。
 商品の注文を取りながら各地をまわるビアジャンテ。一度出かけると、長い人では数ヶ月間旅の空の下にある。この日集まった人たちの多くは八十歳台。戦前から戦後にかけて各地を渡り歩いた人たちだ。
 五十年以上続く同倶楽部の新年会。最初の会場はサンパウロ市カンタレーラ近くにあった新トキワ食堂だった。「百人くらいは集まったんじゃないかな」と語るのは、毎年カンポグランデから参加している成戸正勝さん(83)。
 大阪出身の成戸さんは四八年から十五年間、ビアジャンテの仕事を続けた。
 「鍋、瀬戸物、工具、鍬……」。当時扱った品物を挙げるときりがない。「僕が働いたのはポルトガルやドイツ系の会社。どこも日本人を雇うのははじめてでしたよ」。
 通信未発達の時代、ビアジャンテが各地にもたらす情報は貴重なものだった。久保田健さん(82、北海道)は「サンパウロで新聞社の人と話して情報を集めたりしてね。勝ち負け抗争のころは下手な事は言えなかった」と振り返る。
 久保田さんがビアジャンテを始めたのは十九歳の頃。金物や瀬戸物のほか、蓄音機やレコードも扱った。高価だった蓄音機だがよく売れたという。「娯楽がなかったからね」。
 主に北パラナを回った。「朝三時に起きて行列に並ばないとバスに乗れなかった。たいへんでしたよ」。
 敵性国民となった戦争中は身分証明書を手に旅へ。それでも逮捕されることがあったという。
 この日の最年長出席者、川村久賀須さん(89、三重)は「証明書があっても何にもならん。僕は三回カデイアに入ったよ」と笑う。「三回目は『今度こそ地元に帰ってじっとしていろ』と言われて出た。ほとぼりが冷めたらまた旅に出たけどね」。
 戦後の勝ち負け抗争を経て、六〇年頃にビアジャンテは最盛期を迎えた。地方に情報をもたらす彼らは各地の有識者との交流も深く、当時の新年会には総領事や連邦議員、州議員なども訪れたという。
 昨年亡くなった野村丈吾元下議も、年初の新年会を訪れていた。今年は息子の野村アウレリオサンパウロ市議の事務所から、補佐のガストン・カルバーリョさんが会場を訪れた。
 宴席では誰ともなく席を立ち、昔の流行歌を歌い始める。朗々と歌い上げるその声は、八十の坂を越えてなお張りがあった。
 その一人、大谷岩未さん(宮城)は現在八十一歳。三七年ごろから蜂谷兄弟商会で働き、ノロエステ、パウリスタ各線をまわっていた大谷さんは、本業のかたわら、アコーディオンを手に旅をしていたという。
 「行く先々に楽団があってね。そこで演奏してまた次へ行く。向こうでも待っていてくれるんですよ」。
 「奥さんがプロテスタントで、家で酒を飲めない人もいた。そういう人は旅先で飲むんだよ」と語るのは、水口博さん(83、愛媛)。昨年六月まで自動車部品を販売していた現役のビアジャンテだ。現在は休んでいるが、この日も会場に元気な姿を見せていた。この道五十年。「働けど、金儲からず。悲しいことばかりよ」と語る様子にも陽気さがにじむ。
 宴たけなわ、あいさつに立った成戸さんは「今日出席したビアジャンテの『残党』は十一人。我々のロウソクの灯は二、三年で消えるかもしれないけど、最後の一人まで集まって過去を語りあう、これもまた人生。残った人生、残党の中で友情を育んでいきたい」と再会を呼びかけた。
 一人二人と帰路に着く会場。「一人でも健在なうちにこういう会合をやって昔のつながりを深めるのは大切なことだと思う」と語る橋浦さん。「各地のトップクラスとも交流のあったビアジャンテが日系社会に果たした役割は大きい。その、一つの時代を歩いた人々の記録を残していきたいですね」と語った。

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