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拓魂=県連・ふるさと巡り=汎ソロの移民史名所を訪ねて=連載《4》=オウリーニョス=「毎日会館集まって活動」=45年ぶりの同航者再会も

2007年6月5日付け

 五月十八日午前八時、一行はプルデンテを出発し、二百キロ先のオウリーニョスへ向かった。サンパウロ市からなら三百七十キロだ。
 バスに乗る直前、サンパウロ市近郊のバルジェン・グランデ在住の飯田正子さん(74、二世)に参加した動機を尋ねると、「おばあちゃんがブラジルに来てすぐ死んだんだけど、今はそのお墓がどこにあるか分からないんですよね。ブラジルのお墓って何年か経つと掘り起こして一緒にしちゃったりするでしょ。それで、この旅行って巡礼みたいなものでしょ。あちこに行って代わりに拝んで回っているんです」としんみり説明した。
 それに、「私リンス生まれなんですけど、この旅行であちらに行った時に良くしてもらって涙ボロボロながしちゃって、それから病みつきです」と笑顔で付け加えた。なるほど二世の人にとっては文字通りの「ふるさと巡り」なのだと納得する。
  ☆     ☆
 昼前にオウリーニョス日伯文化体育協会(AECO)に到着した。
 「来てもらって本当に嬉しい」。西川広(ひろし、68、二世)会長の歓迎の挨拶に続き、長友契蔵団長から記念品が渡され、服部省三副会長の乾杯の音頭で会食が始まった。
 西川会長によれば創立は一九五一年で、会員は二百八十家族いる。最大の行事は八月中頃の盆踊りで七百人ほども集まる。
 「毎日のように会館に集まって活動している。ゲートボールも盛んだし、卓球、日本舞踊、カラオケ、民謡とか」と威勢がいい。
 会館から一キロほど離れた場所にセントロ・エスポルチーボがあり、そこにはゲートボール八面、サッカー二面、二十五メートルプールなどもある。
 町全体の人口が十万四千人で、IBGEの調査によれば黄色人種が千五百五十人住んでいる。うち日系人は「だいたい千百ぐらいだろう」と計算し、全体の約一%だと推計している。家族数では約四百家族。「農家は数えるていど。子供はみなサンパウロに出てしまうので、おじちゃん、おばあちゃんが残っている」。
 来年の百周年について質問すると、現在三十人の企画委員会を作って、文協役員だけでなく、生長の家、PLなど日系宗教団体なども含めて大勢の人に意見を聞いている最中だという。西川会長は「二~三カ月の間に何をやるか決める」ときっぱり。「毎年の行事を大きくやって、よりブラジル人と一緒に楽しむ形になるかも」。
 日系のミサト・トシオ同市長も協力を申し出ており、会館前の現「マラニョン通り」を、日本にちなんだ名前に変える案もでている。
 「ただ来年の六月二十一日前後は、サンパウロで大きなイベントがあるでしょう。みんな出て行ってしまうだろうから、ここでは特に準備はできませんね」。
 今年九十九歳になる金田敏夫翁(山口県)も元気に懇談会に出席。一行の同県人と親交を深めた。
 偶然、あるぜんちな丸(一九六二年サントス着)の同船者がみつかった。実に四十五年ぶりの再会だ。オウリーニョス側の服部副会長、中川洋子さん、田中千枝子さんら三人と、一行の田鎖満さんだ。洋子さんは「顔は憶えてないわ」、当時十二歳だった服部副会長も「かすかに憶えている気もする」という。その場で「ぜひ同航会をやりましょう」と意見が一致した。
 お昼を食べて一息ついた一行は午後一時、中川由太郎事務局長の司会で、まず「上を向いて歩こう」を合唱。有志によりオクラホマミキサー、続いて炭坑節を踊った。異性と手をつなぐフォークダンスでは五組ぐらいしか出なかったが、踊り慣れた民謡だと大きな輪ができて盛大にグルグル回る。どこか微笑ましい光景だった。
 最後に「ふるさと」を全員で大合唱。急ぎ足で、サトウキビのエタノール工場へ向かった。     (深沢正雪記者、つづく)

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