ホーム | 特集 | ブラジル日本移民百周年 | 私の「邦字新聞の45年」=ニッケイ新聞 編集局報道部 記者 神田大民

私の「邦字新聞の45年」=ニッケイ新聞 編集局報道部 記者 神田大民

ニッケイ新聞 2008年7月5日付け

日本語でしか情報を得られなかった人たちのために

 ブラジルにおける邦字新聞は、特に日本語でしか世の中のことを知る術(すべ)がない人にとって役に立つ新聞である。このことは、一九一〇年代に最初の新聞が発行されてから現在まで、そんなに変わっていない。九十年余も必要に迫られて発行されてきた新聞だが、とりまく環境、つまり取材対象、読者、広告出稿者(広告主)、新聞製作者などは随分変わった。そして、これまでがそうであったように、将来の予測は非常にむずかしい。〃九十歳余の邦字新聞〃のうち、およそ半分の四十五年間、新聞製作をしてきた者として、歩んだ周辺事情といったものを書いてみたい。「独断と偏見」に満ちたものだが。

いつまで存続するか

 初めに、将来の予測ができない話。今から四十年以上も前の六〇年代、来伯したアメリカの文化人類学者が、ブラジルの邦人新聞の〃余命〃を予測した。「あと十年くらい」と。
 もちろん、大外れである。つぶれなかった。その予測から四十数年、発行が続いている。予測の根拠については、くわしくきかなかったが、「日本語でしか――」の存在と、その人たちによる新聞支持と必要性を軽視したのにちがいない。邦字新聞の存続に関しては、最も予測しにくいものの一つではないかと思う。
 現在、「日本語でしか――」の層が薄くなり、発行環境が確かにきびしくなっているが、交代した世代の製作者たちが、IT時代にふさわしい、新聞のあり方を模索している。つまり、紙だけが新聞ではない、という前提に立つ。読者は、ブラジルだけではない、と考えている。

移民社会の〃権力〃は公館

 新聞の存在意義は「反権力」だといわれる。そうでなければ、新聞が在る意味がないという意味である。邦字新聞もそうありたい、と活動してきた。移民社会における「直接的な権力」は在外公館であった。公館の移民たちへの処し方を見逃すまい、というのが基本姿勢である。弱い立場の移民の側に立とうとしていたといえるだろう。
 特に戦後は相当長い間、つぎのことが、新聞紙上で、あるいはコロニアのほかの出版物でたびたび活字になった。「総領事館員は、戦時に入る前、自分たちだけ、交換船で帰国した。移民は日本政府に捨てられたのだ」。〃棄民〃の語源である。
 この〃棄民〃という言葉、いつの間にかいわれなくなった。時期的にいえば、移住者が減り、航空機による移住になり、JICA(現国際協力機構)の補助金が、移住者への直接的な援助から、子孫たちへのアフターサービスにシフトしたころからではなかったか。
 高度成長期さらにバブルのころ、日系社会は何かと日本政府によくしてもらった。留学、研修、見学などで「招待」がたびたびあった。文句をつける感覚がマヒしたのかもしれない。
 とにかく、移民に不利益なことをしたら、そうだと判断したら、その「非」をとがめようする、これは、〃棄民〃が盛んにいわれていたころの新聞の生甲斐であった。
 時代がずっとこっちに来て、公館(日本政府)のすることに「それは非だ」と言うことがあるとすれば、それは、断然高齢者対策であるはずだ。「国策で外国に(人を)出しておきながら、あとあとの面倒をみないとは…」という言い方になる。だが、世の中が変わったことを、NHKのテレビで観て知っている。日本では高齢者の年金から健康保険料を天引きする時代である。海外在住の日本人高齢者の面倒をみろ、とは極めて言い難い状況なのだ。
 反権力に話を戻すと、戦後の邦字新聞にとって、非難する対象はブラジル政府ではなかった。「この国に来させてもらった。外国語で新聞を出させてもらっている」という考え方が、言わず語らずあったように思う。遠慮というよりは自制に近い。たとえば、軍政のころ、反政府運動者側に立った記事などは、書かなかったということである。
 当国政府を批判しないという気持の深層には、やはり過去国の権力の執行を受けているということがある。それはいかんともし難いという意識である。日本移民史上、何度か表に出た移民(有色人種移民とも括られていたが)導入制限の動き、戦時枢軸国側に立ったことによる日本語使用禁止、新聞発行禁止、資産凍結などである。日本人移民にとってはすべて苦汁であった。資産凍結解除運動もそうだが、ロビー活動のような運動を通じて、当国政府に解除を求めた歴史もある。
 日本人移民は〃農業の神様〃だ、貢献は大きい、だから滅多に差別排除されることはないと、自己評価していたものの、例えば外圧が加わったりすれば、そんなものはひっくり返る、新聞の発行停止などは待ったなしでくる、と日系社会の有識の人たち、新聞社の先輩たちは肌で知っていたように思う。外国語新聞と当国政府の関係においては、新聞側は、常にそのことを気にかけていたというべきだろう。

発行部数のピークは60年代半ば

 邦字新聞の発行部数のピークは、六〇年代の半ばではなかったろうか。これは、比較の問題になるのだが、当時のほうが読者の新聞紙面に対する反応が敏感で強烈だったように思う。記者たちにとっても、より気が抜けないといおうか、読者および取材対象は〃難敵〃だった。つまり「おかしなことは書けない」。場合によっては、気をぬくこともあったという意味ではない。
 取材対象も購読者も、全員、日本語が読めて、元気がよくて、という感じ。朝の出社直後、いわゆる商業時間になると、バンバン電話がかかってきた。もちろん、その日の紙面がありきたりで、可もなく不可もなければ、電話はない。だから早く鳴る電話は、相手方が「記事が気にいらなかった」ものばかりである。取材記者側が、確信を持って書いていれば、その電話に対しては不満、不服である。口論になる。そんなことがしょっちゅうであった。緊張が強いられる一方、やりがいもあったということだ。
 コロニアというところは、良くも悪くも五月蝿い(うるさい)ところで、新聞製作者と、取材対象、読者は本当に近いという感じがする。

一世高齢化で読者減る

 読者事情については、推察もある。
 邦字新聞の発行部数が最も多かった六〇年代の邦人人口は十万人をかなり越えていた。戦前移民も戦後移民も壮年から中高年の層で健在だった。戦前しかも成人してから移民した人たち、および準二世(子供移民)がコロニアの指導層を形成していた。これらの人たちと、成人の戦後移民が新聞の読者層であったのはいうまでもない。当時の邦字新聞三紙の公称発行部数は合わせて五万余りであったはずだ。
 七〇年代の半ばには、移民がほぼ完全に止まった。新たな新聞読者がいなくなった。そして、一世たちは老いだし、死亡者も増えだした。現在の一世人口は、駐在員を含めても七万人を割っている。読者数も推して知ることができよう。
 八〇年代の終りから、日本への出稼ぎが始まり、急増した。周囲から「出稼ぎに行くひとが増えて(読者が減って)大変でしょう」といわれた。しかし、筆者は、出稼ぎが読者数に与えた影響はさほどでないと考えている。
 読者が、減る要因はずばり、一世の高齢化である。高齢化すれば、現役のころより、ふところ具合が不如意になる人のほうが多いし、新聞を読むのが面倒になったり、目が悪くなったりで、購読をやめるのである。読み続けてくれた人も死亡すれば、「一部減」である。
 四十五年間、あたりを見てきて、二世、三世は、読者、厳密にいえば購読者になってくれないことを知っている。購読してくれるのはあくまで「日本語でしか、世の中のことを…」の一世なのである。

「でも記者」多かった時代

 邦字新聞の製作者、特に記者について書いておこう。どんな人が記者として新聞製作に携わったか、戦前の事情については知らない。
 戦後は、新移民が途絶えるまで、記者の数において心配することはなかった。紙面の片隅に「募集広告」をすれば、希望者はじゃんじゃん応募してきた。地方から出聖して失職しているか、その時点での職場が面白くないから、のいずれかの若い者たちである。日本から記者を志して渡航してきた、きわめて一部の人たちを除き、ほとんどが「でも記者」であった。つまり、「新聞記者でもやってみるか」と応募してきたのである。ともに新聞をつくってきた仲間のことだから、よく知っているが、記者には不向きな人もいた。
 パウリスタ新聞社の場合、応募者に入社試験があった。作文を二題課した。一つは「渡伯の動機」、もう一つは「邦字新聞をどう思うか」である。いわば、その人の意欲と取材対象になる日系社会に関する予備知識といったものをみようという意図が出題側にあった。それと文を書いてもらうと、日本語の力が分かる。
 作文は、「家(下宿=ペンソン)に帰って、一晩かかって書いてきてもいい。辞書を十分に引いて書いたらいい」と、おおらかなものだった。それでも、たとえ、他人の力を借りて書いてきても、当人の「力」は推し量れると、出題側は考えていた。実際のところ、そのとおりだった。作文の質がその人の力量を示していた。
 さて、記者の勤務年数である。おおむね短かった。新聞社の毎日の仕事に失望した人、向かないと自覚した人は、短年月で辞めていった。当人にとっても、新聞社にとっても、残念だったのは、「仕事は好きなんだけれども…」といいながら、よくできる人が退社していくケースであった。

辞める理由「安月給」

 辞める理由はただ一つ「安月給」である。立派な言葉で?いうと、邦字新聞社は創刊時から、伝統的に、構造的に安月給なのである。他業種と比べていつの時代も給与水準が低かった。先輩たちの証言もあるから、事実である。
 まだ独り身のときは、安月給でもなんとかなる。結婚して、こどもも大きくなり、特に教育費が嵩(かさ)んでくると、とてもやっていけない。「新聞社の仕事は好きなんだが」「もう少しやっていたいんだが」と言いながら、去っていった人たちが何人いたことか。
 今はあまり言わないが、よく「御三家」といって自嘲したことがあった。同じ論点において代表的なものを三っ挙げる場合にいうが、「コロニア安月給の御三家」という言い方があり、この中に、いつも邦字新聞社がはいっていた。
 たとえば、ある時期「(安月給の)御三家は、組合、銀行、邦字新聞」といわれても、いつのまにか、組合と銀行は、構造的にベースアップができる業種にかわり、御三家から外れる。そしてほかに新たに挙げられる業種が出てくる。ところがいつも三つに含まれているのが邦字新聞社、というわけである。
 赤間学院の創始者赤間みちへさんは、独身の新聞記者に「当校の卒業生をお嫁さんに世話しましょう」と言うことがあった。実は、実現した例を知らない。お嫁さん候補の親に口をかけて「安月給だから」と断られたか、彼女自身の単なるリップサービスだったのかはよくわからない。いずれにしても、安月給が大きな支障だったのは間違いない。
 人を雇用し、給料を支払う側の経営者についてもふれておくと、いつの時代も、それなりに経営努力はいていたのだと思う。ただ、構造的にどうしても、売上げが上がらず、従業員の待遇をかえられなかったのであろう。別の側面からいえば、ベラボーに儲け、個人資産を高く積み上げたという経営者はいない。
 話を戻して、新規募集をかければ、いくらでも新聞記者志望者が増えていた時代は二十年間ぐらいはあったろうか。入れ替わりは本当に激しかった。

記者募集、空振りばかり

 七〇年代の終わりごろから、募集をかけても応募者がいなくなった。理由は、はっきりわかることが三つ。「(若い者を含め)移住が止まった」「戦後移住者も(ブラジルで)落着くべきところに落着いた」「日本の高度成長が本格的になり、帰国する者に(日本で)雇用があった」。くっきりと線引きしたように、移民の記者志望は消えたのである。
 新聞社は「記者源」をどうしたのか。詳述はできない面もあるが、どうにか、取材活動を続けて来れたのは、移民ではないが、日本からさまざまな若者がやって来る時代に変わったからである。
「自分探しに(将来の生き方を考えるために)ブラジル来た」という若者のなかには、マスコミ志望が相当数いた。かれらは、一年~二年間、ブラジルにいて、世間を学び、日本に帰国後、望んだようにマスコミの仕事についている者が少なくない。
 コロニアのうるさい向きから「日本から来たばかりの(ブラジルのことを)何も知らない連中にいきなり取材活動させていいものか」という声があったが、新聞社としては、ない袖はふれなかった。在伯年数の長短にかかわらず、いわゆる「戦力」として働いてもらうしかなかったのである。

「三文新聞」という風潮

 赤間学院の赤間みちへさんが、若い新聞記者に「当校の出身者をお嫁さんに世話しましょう」と言いながら、容易に具体化しなかったわけについてもう少しふれよう。
 赤間さんが、独身の日本人の若者を見て、好意的に「いつまでも独りでは…」と心配してくれたのは疑いない。
 ただ、若い女性の親たちの気持ちはまったく別だったことも確かだ。私自身にも四十五年経ても鮮明な記憶がある。
 正確には六四年九月。ブラジルに呼び寄せてくれた北パラナの農場の支配人牛草茂氏に、「ここを出たい。サンパウロのパウリスタ新聞に入る」と告げたとき、同支配人は、けわしい表情で言った。「あんな三文(さんもん)新聞に入るのか」。
 さほど驚かなかった。いわゆる世間の邦字新聞に対する評価をうすうす知っていたからである。ただ、せっかく呼んでくれたのに、と申し訳ない気持ちだった。
 三文新聞に働く若い記者も「三文記者だ」という評価があったのも、確かであった。しかし、一世のコロニア人は〃三文新聞〃以外に、購読して世の中を知る術がない。思えば、おかしな関係である。
 「三文」が冠されなかったが、同時代冷ややかに見られていた人たちがいた。日本語教師である。やはり「でも」「しか」で教師になっている人たち、といういわれなき中傷のようなものだ。志があって、教師になった人もいたろうに…。
 なぜ、そのように、当たり前に見られなかったのだろうか。はっきりしている理由が一つある。当時はまだ、日本人たちの職業の最大の割合を占めていたのは農業者である。身体を使って、汗を流して働く、それにブラジルまで移住してきた本来の目的に外れていない人たち、それが農業者だ。農業者以外は、外れている、軟弱だ、そんな、風潮があったように思う。
 そうした風潮の中、大切な娘を軟弱といわれる農業不合格者の〃新来青年〃(おしなべてそう呼ばれた)にやれるか、という親が大勢を占めても不思議でない。
 新来青年たちが、先輩移民の娘を迎えるには、ナモーラしかない。つまり、親の反対を押し切るのは、娘の気持ち次第、ということだ。新来たちがその後もすべて独身でないのは、そういうことがあったからだ。
 牛草氏は、コロニアの有力者の一人として、時々、新聞社を訪ねてきた。「よう、やってるか」くらいの言葉はかけてくれた。

売上げ伸びない企業

 邦字新聞社は構造的に売上げが伸びない企業であることはふれた。それでも、経営する人はいた。だから発行を続けてこれた。新聞社の数は少ないから、経営者の数も多くはない。
 当たり前のことだが、創業者は、日本語新聞だから、日本人移民に読んでもらおうという気持ちで創業するのだから、すべてが日本語がわかる日本人だった。しかし、創業者が死去してから、後を継いだのは、創業者の子孫か、あるいは新聞社に関係していた二世たちだった。
 商機を見い出すという言葉がある。後継者たちは「やっていける」と考えたのではないか。もっといえば、野心を抱いていた。
 一世、特にこの場合戦後移民は、後継者にならなかった。日本語がわかり、邦字新聞はコロニアに必要だ、ということを認識していながらである。
 長い間「参加しない戦後移民」とされた文言は、ここでもいえる。より重要な公共団体のトップを目指さなかったことを「参加しない」といっているが、新聞社経営においてもいえる。戦後移民は当初、カネ(資本)がない、のがほとんど一〇〇%だったのだが、ブラジルで経験を積んでいくにしたがい、それは理由にならなくなっていった。経営の才がない、のでもない。実際、農場経営は大規模に、製造業やサービス業は大々的に展開、という人は少なくなかったはずだ。
 新聞経営だけは志向しなかった。感覚的に肌で「新聞社はダメだ」と感じ取っていたからではないか。伝統的に、構造的にダメだ、である。いい意味で臆病で、「危うきに近寄らずだった」といってもよい。もっときつい言い方をすれば、計算高いともいえよう。
 戦前移民には線の太い人がいた、という言い方がある。当たっていると思う。対照的に戦後移民は戦前移民ほど線が太くないのだ。
 他人事(ひとごと)みたいに言うな、という声が聞こえてきそうだ。かくいう筆者は、戦後移民の欠陥的なところはすべて満たしている。
 一つ加えると、いちいち紙に記事原稿を書いて報道してきた従来の新聞記者たちと異なり、次世代は、ITを駆使して新しい局面を開きそうな可能性がある。コロニアの読者数は、などとこだわらないのである。そのとき、邦字新聞の性格は随分かわるだろう。「ブラジルが地盤、発信地」という点だけは変わらない。

社説欄を設けない理由

 現在の邦字紙には「社説」がない。ニッケイ新聞の場合、パウリスタ新聞と日伯毎日新聞が合併(一九九八年)した当初からなかった。日本語の記者、編集者たちが協議、合意して社説を〃再設〃しなかったのである。
 協議した記者たちには、それぞれ意見があったと思う。新聞には社説があるものだ、必要だ、と考える人もいたにちがいない。しかし、社説欄は設けないと決した。
 社説とは何か。これも意見が分かれるだろう。「新聞社(として)の意見、主張」が一応、社説であろうと思う。ただ、執筆するのはたいてい一人である。新聞社によっては、論説委員というものがいて、何人かで「何(どんな題材)を取り上げ、どう主張していくか」を協議し、まとまったものをだれかが代表して書く、というふうなのもあるらしい。また、委員の代表に任せて、新聞社の意見・主張であるように書いてもらう、というのもある。いずれにしても読者をとりまく状勢(世の中)が流動的で、「悪い方向」にいかないように、できるだけ「いい方向」に導けるよう主張すべきはする、というのが、社説のおおよその使命だと思える。
 「いい」とか「悪い」とか、具体性のない表現をしたのは、世の中のことは、だれもが、容易に判断しかねるからである。
 他人事のように書いたが、筆者は「社説欄は設けない」のほうだった。理由は、世の中および個人の意見が多様化して、新聞が方向づけをしようにも、困難だと考えたからである。執筆者個人の意見は言えるのである。
 ニッケイ新聞が発行され出してまもなく、ブラジリア在住の日本人弁護士(ブラジルに帰化した元日本人というのが正しいか)今井真治さんから、電話があった。「なぜ社説がないのか」。今井さんは「社説は新聞のヘソ」と考えている人だ。
 筆者は思っているとおりを答えた。「現在のように、個人個人の考え方が多様化している時代に、社説を掲げるのは僭越だと思うから」。本音である。社説として、何をどう書いても説得力はほとんどないのではないか、おおげさにいえば、絶望感……虚しい……。
 実は、多様化しているからこそ、社説を掲げるべきだ、という意見もある。
 今井さんは、はぐらかされたようで腹を立てたのではないか。そして、「この不勉強なヤツめ」と言いたかったかもしれない。
 社説は読者をとりまく社会の「問題点」がないと、書きにくい、書けないのである。戦後の場合、移住者が続々やって来て、困窮した人も少なくない。日本政府に(戦後のこの時期なら、出先の海外協会連合会や海外移住事業団に)こう支援、援助すべきだ、と主張しやすい。また、日系団体の形成期なら、こうしたらいいのではないか、と提案ができた。社説の存在意義もあったといえよう。
 移住が事実上途絶えてから、読者たちの「高齢化」と「減少」が始まった。日本政府の移住政策も変わった。というより無くなった。移住者の子弟援助、その柱が日本語教育、それが移住政策の一つだ、という議論もあったが、どうだろう。どちらかといえば、「技術協力」の分野ではないか。
 日系団体も一世主導のものが、潰れたり、指導者が代替わりするようになった。日本語でなく、ほかの言葉で助言したほうがいい、と思えば、(日本語での)記述意欲もにぶってしまう。
 このたびの百周年協会の在り方に対する批判などは、本来なら格好の社説材料であるはずだった。しかし、述べても書いても届かないのである。その結果は、祭典が追い込みにはいった時期になっても、読者たちが協会の仕事振りにもどかしさを感じ続けていたことからも明らかだろう。

忘れ得ぬ人々

 取材を通じて、特に社会部の外回りをやっていた頃、話をきいた人たちのなかで、今でも忘れられない人が何人かいる。いずれも、コロニアにおいて、一〇〇%すばらしい、と評価された人たちではない。毀誉褒貶(きよほうへん、誉めたりけなしたりする世間の評価)があった。

《山本勝造氏》「移民の日」の設定を文協理事のころ提唱し、日系社会の一つの記念日を創設した人だ。
 戦前、渡航前、鈴木商店で働いた、という経歴をもっていた。いわゆる商社マンのハシリである。初めて紹介されたときは、電球を製造していたが、その前はバタタの仲買いをしていた、ときいた。相当ぎらぎらしていて、活力あふれる、という感じ、そしてアイデアマンであった。展開した事業がすべて成功したとはいえない、と、たぶん〃自他ともに〃言うと思われる。
 政府のインセンチーヴォの率先利用、電球製造の州外展開、セラード開発会社創設への投資、参加、前線指揮までやった。
 開発会社の農地の大豆がすくすくと生長していた初年度、邦字記者団がミナス州パラカツに招かれ、見学・取材に行った。山勝さん(われわれは親しみを込めてこう呼んだ)は、管理事務所家屋のベランダの椅子に掛け、ファゼンデイロのように「どうだ、いい気持ちだろう。(セラードの)将来のこと、どう思う」と話し掛けてきた。私は、セラード農業の将来については、余り勉強していなかった上、不信だったので、さっと即答ができなかった。山勝さんは、不服そうだった。
 彼は、ブラジルはセラード地帯の開発をすすめ、セラードを世界の穀倉地帯に生まれ変わらせるべき、また個人的には、真のファゼンデイロでありたい、と強烈に希求していたようだ。
 開発会社が資金的な行き詰まりが全くなく、山勝さんが健在だったら、今何と言うだろう。
 山勝さんのもう一つの功績はNCC(ニッポン・カントリー・クラブ)の創設だ。先見の明があり、リーダーシップの賜物だった。

《藤井卓治氏》 先輩たちから、この人物についてはさまざま聞いていた。それを、端的いえば「狸」「煮ても焼いても食えない」。筆者にとっては、コロニアというものがどういうものであるかを、教えてくれた人である。
 紹介されたころは、文協(現在のブラジル日本文化福祉協会)の事務局長をしていた。邦字紙記者から、山本喜誉司初代会長に引っ張られ、その椅子に座ったと知らされていた。
 初対面の際は、当たりがやわらかい、という感じ。外回りで事務局長室に入り、藤井さんのそばのソファーに座る。用がなくてもそうすることができた。だが、こちらから、訊かないと何も言わない。ただ、じっと観察されている感じ。
 話術は巧みで、話の中のどこの個所が真実かは、こちらが判断しなければならない。つまり、〃若造〃は翻弄されていた。しょっちゅうカラカラと笑い飛ばされ、煙に巻かれた。
 コロニア通は確かだった。付き合いが広かったというのか。移民(コロニア人)のことを隅々まで知っていたというべきか。文協は、一時期、コロニアの諸団体の元締め的立場にあったといってよい。今の求心力のなさ、とは雲泥の差である。そのまとめ役が事務局長の藤井さんだったといってよい。理事を理事とも思わないような不遜さ、貫禄があった。私たちにとっては、社外の大先輩であった。
 事務局長退任後、日本からの某進出保険会社役員に転身した。もちろん、顔の広さを買われてのことだった。進出企業は、コロニアの〃タダのネズミ〃には口をかけない。藤井さんが評価された具体的な表れである。

 《竹中正氏》 サンパウロ日伯援護協会の「中興の祖」といわれる。当たっていると思う。会長時代、機関車のように役職員たちを引っ張った。
 「世間の評価が得られるような、大きいことをやろう」という、そういう気持が「竹中機関車」を動かすエネルギーだったのかもしれない。日伯友好病院の建設は、その結晶である。病院そのものの評価は建設当時も今も定まっていないが、少なくとも業績を上げている病院である。その病院を強力なリーダーシップを発揮して建てた人である。
 竹中さんの前の会長の中沢源一郎さんは、コロニアが病院を建てることには消極的、いわゆる「石橋を叩いてもなかなか渡らない」で、在任中、少なくとも病院建設を援協事業にはしなかった。竹中さんが会長に就任して構想を打ち出すと、(文協会長に就いていた中沢さんは)反対はしなかった。建設環境が変わったとみたのかもしれない。
 援協の現在事業の基礎づくりも竹中時代の仕事だった。
 竹中さんのもう一つの業績は、日本とのスポーツ交流の隆盛をもたらしたことだ。アテアビスタ会という「個人団体」のような団体を足場に、日本のスポーツ団体に食い込んでいた。日本側の人脈といったものも、「竹中さんの時代」とウマがあっていたのだろう。特に陸上競技、バレーボールの交流が密だった。いま、日本のスポーツ界に対し、竹中さんほど顔がきく人は日系社会にいない。交流もしぼんでいる。
 この分野も、「世間の評価を得たい」という竹中さんの強い上昇志向が推進させたものとみることができる。

image_print