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日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(1)=亜国に残る裁判書類=1596年に売られた日本人

ニッケイ新聞 2009年4月9日付け

 「南米日本人発祥の地」は一八〇三年にロシア船に乗ってフロリアノーポリス港に到着した若宮丸の四人――とのイメージが強いが、史実をたどると、どうやらそうではないようだ。それよりも遙か以前、今から四百年以上も前に南米の地を踏んだ日本人の記録が残されている。日本とブラジルとの歴史的関わりを考える上で、ポルトガル(中世「南蛮」と称された)は欠かせない国だ。この三国関係を軸に、改めて日伯の歴史を俯瞰し、カトリック布教と大航海時代という背景の中で、日本人が四百年前にブラジルに来ていた可能性を検証してみた。将来を見通すには、その分、過去を知る必要がある。百年の歴史から日系社会の将来を考えるより、より長い歴史の中から日伯関係を俯瞰することで、日系社会の二百年後、三百年後を構想するアイデアの一助にならないだろうか。(深沢正雪記者)

 博覧強記でしられた故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、一九九四年、以下『入門』と略)を読み直して、「(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった」(百六十四頁)との記述に目が引かれた。
 驚くことに、「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書がのこされている」(百六十五頁)という具体的な内容も記されている。
 さっそく『アルゼンチン日本人移民史』(第一巻戦前編、在亜日系団体連合会、〇二年)を調べてみると、確かにある。
 同国の古都コルドバ市の歴史古文書館で発見された最初の書類では、一五九六年七月六日、日本人青年が奴隷として、奴隷商人ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラスという神父に八百ペソで売られたことになっている。
 その日本人青年の属性として「日本州出身の日本人種、フランシスコ・ハポン(21歳)、戦利品(捕虜)で担保なし、人頭税なしの奴隷を八百ペソで売る」(同移民史十八頁)とある。残念ながら、日本名は記されていない。
 さらに、『日本移民発祥の地コルドバ』(副題「アルゼンチン・コルドバ州日本人百十年史」、大城徹三、一九九七年、以下『コルドバ』と略)によれば、日本人青年は一五九七年三月四日付けで、「私は奴隷として売買される謂(い)われはない。従って自由を要求するものである」と起訴したとある。
 奴隷として売られてから二年後、一五九八年十一月三日に裁判に勝訴し、無事、自由の身になった。裁判所は、代金の八百ペソを奴隷商人から神父が取りもどす権限を与えている。
 「この日本青年は心身共に強健で才能に富んだ傑人と思われ、それなりに他の奴隷に較べて三、四倍の高値で買い取られている」(『コルドバ』十六頁)と考察する。奴隷として売られた人間が、「奴隷ではない」と裁判を起こすこと自体、当時は珍しいだろう。
 これが亜国初の日本人公式記録であり、それゆえコルドバが「南米日本人発祥の地」だという。
 四百十三年前の事実が発掘された発端は、今から四十年ほど前に、日系二世も含めた大学生の研究グループが、同古文書館から奴隷売買証書を発見したことにある。これが後に、コルドバ大学から『一五八八年から一六一〇年代迄のコルドバに於ける奴隷売買の状態』(カルロス・アサドゥリアン著、一九六五年)として出版された。
 さらに、八二年に大城氏の依頼によりコルドバ国立大学の図書館から裁判書類が発見され、当時の日系社会で大きな話題となったという。
 織田信長や豊臣秀吉が天下人になっていた安土桃山時代に、いったい誰がアルゼンチンまで日本人を連れてきたのか。
 これは南米の日本人移民前史における最大の謎だ。今ですら、南米までくる日本人は少ない。まして当時は、どのような経緯で渡ってきたのだろうか。(つづく)

写真=『日本移民発祥の地コルドバ』に掲載された裁判書類

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