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日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!=連載(8)=ポルトガルからオランダへ=政教分離進む新教に軍配

ニッケイ新聞 2009年4月21日付け

 大航海時代はスペインとポルトガルが競って世界中に飛び出した。カトリック布教と貿易が対になって進出し、最後に植民地化する流れだった。欧州大陸で新教が勢力を増しているため、旧教側としては新布教地を開拓せざるをえなかった背景があった。
 だが百年も持たずに、新興勢力などに追い越された。一五八八年に「スペインの無敵艦隊」がアルマダの海戦で、英国に敗北したことにより、欧州の覇権が旧教国(スペイン・ポルトガル)から、新教国(イギリス・オランダ)へ移ろうとしていた。
 日本も最初はポルトガルと取引したが、カトリック勢力と一体化していたやり方がバテレン追放令を発令した秀吉や続く江戸幕府の不審を買い、宗教と政経の切り離しが進んでいたオランダに取って代わられた。
 一六三八年に日本国内では、島原天草の乱が起きた。三万人もの民衆が蜂起し、大きな衝撃を与えた。幕府は徹底鎮圧し、翌一六三九年にポルトガル船の追放を行い、鎖国(オランダ以外)を完成させた。
 日本との交渉権を失ったポルトガルは一六四〇年、スペインからの再独立を果たし、ブラガンサ王朝が成立、ようやく最大の植民地ブラジルに本格的に目を向けるようになった。
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 カトリック守護を掲げていたポルトガル王室はドン・ジョアン二世(一四五五―一四九五年)の時代に、国内のユダヤ人に改宗を迫り、その大部分は資本をもってオランダなどに逃げた。のちにこの勢力が新教国の海外発展に協力、隆盛につながった。
 この時に改宗したふりをしてひっそりと信仰を貫き、クリスタン・ノーボとよばれて差別され続けた人もいた。さらに、ブラジルのペルナンブッコに移住して砂糖農園主になったものもいた。
 一六三〇年から五四年までペルナンブッコは、オランダの東インド会社が侵略統治していた。ポルトガル領では禁止されていたユダヤ教もオランダ領では許された。そこに一六三七年には新大陸最初のシナゴーグ(Kahal Tzur Israel)まで建設された。ユダヤ系コミュニティにとっては新大陸の宗教的オアシスとなっていた。
 ところが、オランダなどの新教国に東方貿易のうまみを持って良かれつつあったポルトガルは、ブラジル統治に本気を出すようになり、一六五四年にレシフェを再占拠しオランダ人を追い出した。
 この時に、ポルトガル統治を嫌ったユダヤ人百五十家族が、十六隻の船に分乗して逃げ出した。うち六家族二十三人が同年九月七日、北米のオランダ領だったマンハッタン島のニュー・アムステルダムに上陸した。
 このポルトガル系ユダヤ人たちが、北米のユダヤ系コミュニティの基礎を作ったといわれる。ここは、一六六四年に英国領となりニューヨークと名前を変え、世界の中心たる存在感を見せるようになったことはいうまでもない。
 例えば、一七三〇年にリスボンからこのコミュニティを頼って移住したポルトガル系ユダヤ人のメンデス・セイシャス家の子孫ベンジャミンはニューヨーク株式市場の、モイゼスはのちのアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)の創立者の一人だ。
 二〇〇四年に北米上陸三百五十周年を祝う展示会が、米国のユダヤ系コミュニティによって行われ、当時のことを書き記した文書がブラジルでも注目された。
 前述の通り、ブラジル側は共和制宣言の後に消却してしまったため、奴隷の記録が残っていないが、この北米に転住したユダヤ人たちは数々の書類を残しており、日本人奴隷が当時、北東伯の砂糖農園で働いていたのであれば、それに関する記述もあるかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ニューアムステルダムの様子



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