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評価シンポ=百周年を振り返る=なぜあれほど報道されたか?=ブラジルマスコミが見る日系社会

ニッケイ新聞 2010年1月1日付け

 なぜ08年のブラジル日本移民百周年ではブラジルマスコミから、誰もが予想しなかったほど大々的に扱われたのか。その疑問に答えるべく、百周年協会(上原幸啓理事長)と日伯社会文化統合機関(中矢レナット理事長)の共催により百周年評価シンポが、10月26~27日に国際交流基金サンパウロ日本文化センターで行われた。102周年目の新年を迎えるに当たり、その内容を振り返り、150周年、200周年に向う日系社会の将来を考えたい。

 エスタード紙論説委員のオクバロ・ジョルジ氏が統括する「百周年とメディア(=報道機関)」部会では、「日本移民とその子孫がブラジル一般に及ぼした、伝統、趣味、文化、芸術などの面における影響など、疑問の余地なく、ブラジルメディアによる日本移民に対する扱いの広範さ、愛情深さは、かつて他民族系の移民の時に同様のことが起きた記憶はない」と同氏が分析して見せた。
 この部会には、元フォーリャ編集長にして現エスタード論説委員のアリ・デ・トレド・シュネイデル氏、グローボTV局サンパウロ総局の編集局長のデニーゼ・クーニャ・ソブリーニョ氏、メディアを客観的に評価するラジオ・クルトゥーラの番組「オブセルバトーリオ・デ・インプレンサ」の司会者のルシアーノ・マルチンス・コスタ氏が出席し、それぞれの興味深い見解を述べた。

先鞭つけたエスタード紙

 コーディネーターのオクバロ氏が強調したように、先鞭をつけたのはエスタード紙、タルデ紙が社内の日系記者を集めて2004年7月26日付けで百周年別冊を早々と刊行したことだ。本番に先駆けること実に4年前だった。
 シュネイデル氏は、2003年に遠山景孝氏からプロジェクトが出された時、生き馬の目を抜くような出入りの激しい報道界において、「だいたい誰が08年まで新聞社にいるのか?」と疑問を呈したほど先の感じだったと振り返った。
 以来、両紙は毎年別冊を刊行し、フォーリャ紙、ベージャ誌などの主要紙媒体はもちろん、グローボ局などのTV媒体、インターネット媒体など数え切れない報道が行われ、誰もが予想しない〃呼び水効果〃をもたらした。
 シュネイデル氏は「ドイツ系、イタリア系などの他の移民コミュニティの時には見られないジャーナリズムの関心を呼び起こし、予期せぬ報道合戦を繰り広げることになった。それはひとえに日本移民の勤勉さ、誠実さ、忍耐強さなどのイメージによるものだ」との考えをのべた。
 なかでもグローボのサンパウロ総局は08年3月10日から皇太子殿下がサンパウロ市を離れた6月22日までに、250本以上の番組を製作した。連日のニュース番組などで日系社会の歴史やトピック、人物紹介など、日系人自らの予想を遙かに上回る報道を行った。
 この大量報道を番組スポンサーとして支えたのはブラジル企業が中心であり、中でも連日流れる銀行のTVコマーシャルは印象的だった。
 同部会では、全ての主要銀行が百周年を祝した理由を調査した結果、1943年にマリリア市で創立したブラデスコ銀行は「当行の日系社会との絆は長年に渡っているから」と返答、カイシャは「家族経営の零細企業の経済的発展を目的とする当行にとって、日系社会は戦略的な重要性を持つ」とし、最も大量の広告で支援したレアル銀行は「日本移民が創設した南米銀行の顧客を引き継ぐ当行にとって、日系社会との絆は大変強い」と説明した。

血縁、地縁、職縁

 シンポの中で、期せずしてブラジルマスコミ界を代表して出席した3人とも、近い身内に日系人がいることを自ら明らかにした。
 特にグローボのソブリーニョ氏は夫が日系二世のタナベ・ダニエル氏であり、訪日経験3回、滞日期間は計1カ月以上という親日派だ。
 「私の家族は日本人の農場でカマラーダをしていた」。マルチンス氏は日系集団地であるレジストロ出身で、両親が日系人の農場で働いていた。母親はユダヤ系カトリックで、日本人のコレジオに通って日本的な教育を受けた。マルチンス氏自身も子供の頃、日系人の中で育ち、特にレジストロ野球クラブで日系子弟に混じって野球をしながら育ったという。
 07年に同地の百周年記念事業の一環として歴史ビデオ制作にも関わった際、90歳になったばかりの同氏の母は終戦直後の知られざる日系人との深い関係を初めて話したという。
 「1945年の終わり頃、政治経済警察は私の家にいつも日系人が出入りしていることに目をつけ、極秘で母に日系人を見張るように命令した。でも、母は誰も告発しなかった。だから当時、日系人は誰も捕まらなかった。母はこの話を07年まで一切口外しなかった。その理由を問うと、母は『戦争は過ぎるがアミザーデ(友情)は残る』と言った」との感動的なエピソードを披露した。
 シュネイデル氏は職縁ともいうべきものを強調した。ジャーナリズム界には伝統的に日系人が多いとし、特に先駆者である翁長英雄、カオル、ルイ兄弟の名を挙げ、さらに「エスタード紙にはオクバロ・ジョルジ氏の存在はもちろん、18年間の長い間タルデ紙編集長を務めた私の上司である金城セルソ氏、宮城タカオ氏・・・」などと同僚や元同僚の名前を十数人列挙した。
 さらに「自分はナカムラのソグロ(義父)であり、ナカムラ姓の孫が2人いる。クニャーダ(義姉妹)、2人のソブリーニョ(甥)にはウエダという苗字がいる」との強い血縁も明らかにし、「大変光栄だと思っている」と語った。
 また、オクバロ氏は日系ジャーナリストの名前のリストを作ってほしいとの渡部和夫氏の要請に対し、「1冊の電話帳のようなものになる」とユーモラスに断ったエピソードを披露した。
 血は水より濃いという言葉があるが、血縁だけでなく、共に育った地縁、職縁は、間違いなく同じように重要な絆を育んでいる。

総動員だったグローボ

 グローボ・サンパウロ編集局長のソブリーニョ氏は、「日系人はチミド(内気)な特徴があるから、カメラに向ってしゃべるよりも、カメラの後ろで取材や指示する立場にいる方が向いている。実際たくさん同僚にいる」という。「07年のはじめにプロジェクトを作った時、信じられないかも知れないが、日系記者を集めたが彼らはほとんどコムニダーデとつながりがない人ばかりだった」。
 日系ジャーナリストたちも百周年を通して、自らの祖先との絆を再確認していったことが分かる、興味深い証言だ。
 「全国版のグローボ・レポルテル、ファンタスチコ、グローボ・ルラル、ジョルナル・オージ(朝)、ジョルナル・ナショナル(夜)、ジョルナル・ダ・グローボ(深夜)、サンパウロ州内のSPTV、アンテナ・パウリスタなど全ての番組をつかって百周年をあつかった」と全局を挙げての総動員体制だったと強調する。
 例えば看板番組のジョルナル・ダ・グローボという20分のニュース番組のうちで5~6分を毎日使った。これは「通常ありえない」という。「戦争中の迫害などデリケートなテーマも積極的に扱った」。
 六つのシリーズもの、2本のグローボ・レポルテル(2時間)を加え、250本もの報道を行った。日曜夜の人気番組ファンタスチコのためにゼッカ・カマルゴを日本にまで送った。「最初は日本を見せることに心を砕いていたが途中で、〃ブラジルの中の日本〃を見せることに変更した」との証言も興味深い。
 さらに「東洋趣味(オリエンタリズム)への好奇心からこのような大量報道になったのでは」との質問に答え、「イタリア系、ドイツ系などは最初の移民がいつ来たという明確な日付がないが、日系はハッキリしていたので、報道しやすかった」との理由も挙げた。
 「けっして異国情緒(エキゾチズム)だけから報道された訳ではない。日系人の貢献にみあった報道を考えた。我々は視聴率が下げてはいけない。疑問の余地なく、視聴者はこの報道を喜んで関心を持ってくれたと考えている。日系人の貢献はすべてのブラジル人の生活の一部になっており、漫画、アニメ、カラオケも含め、すでに統合されたモノになっている」。
 そして「視聴率はいえないが、例えばジョルナル・ダ・グローボの百周年報道の5~6分の間に、視聴者が他局にチャンネルを変えることはなかった。むしろ逆で、大変優れた結果をもたらしてくれたと認識している」という。
 最後に「次の100周年もグローボは取材したいと考えている」と締めくくった。

■記者の眼■移民と日本の相乗効果=別の選択肢求める新政権

 100年前に日本移民がサンパウロ州に集中して入ったのは、コーヒー景気がもたらした偶然の地縁だった。そこで植民地を作り、カマラーダとして雇ったブラジル人家族への扱いが日本人への信頼を生み、1世紀後に社会全体から祝われる素地となった。
 戦後、ブラジルに骨を埋めることを決意した移民は、二世をサンパウロ市の大学に進学させることに粉骨砕身した。卒業した子弟は大企業に就職し、大学教授やジャーナリストになって社会上昇を果たしていった。
 大サンパウロ市都市圏は戦後、〃ブラジルの機関車〃といわれるほど発展し、全伯的な主要新聞社、テレビ局、出版社などのマスコミが集中した。そこから職縁が生まれ、それがここで見られるような血縁につながっていった。
 興味深いことに、一般に大学に進学してエリート街道へ進んだ日系人は、日系社会から離れていったが、この百周年の機会に一般社会側から日系ジャーナリストに「あなたも日系人でしょ」という具合に、自覚を催されたことがよくわかる。
 この大量報道が一般社会全体に与えた影響は絶大だ。それが波及して多数の地方紙でも特集が組まれ、有機的な波及効果をもたらし、全伯津々浦々まで知れ渡った。
 「移住」にまさる深い国際交流はないことを実証したのが、百周年でのブラジルメディアの盛大な報道だった。百年の共生経験から生まれた日系人にたいする「誠実さ、勤勉さのイメージ」「移民による熱心な子弟教育」がその背景となっている。
 その続きとして、「大学に進学して社会上昇した二世がエリート階級と作った職縁と、そこから生まれた血縁」が生まれ、上流階級からの日系人への親近感を醸成した。
 ただし、地縁、血縁、職縁はドイツ系やイタリア系も当然ある。それだけでは説明のつかない現象が百周年だった。

〈内なる異邦人〉扱い

 おそらく、ポルトガル文化を基調とするブラジルにおいて、西洋文化圏から来た欧州移民は、興味を引くような珍しい存在ではなかった。
 異国情緒あふれる東洋への憧れ〈オリエンタリズム〉が、一見して外見が異なる日本移民とその子孫に投影され、異文化を持った自国民〈内なる異邦人〉とのイメージに結実したようだ。
 戦前のコロニアは一世が主体で言葉も通じず、一般社会から理解されない状態だったので差別の対象となった。しかし、戦後は言葉に問題のない二世世代が一般社会に入り込むと同時に、日本が奇跡の高度成長を遂げたため、〃祖国の後光〃で底上げされた敬意を払われるようになった。
 振り返れば、ブラジルは前世紀初頭から、アフリカ系文化から発展したサンバ、カポエイラなどを、国を代表するイメージとして国際的にアピールしてきた。欧州とは異なる文化を内に求め続けてきた伝統のあるブラジル知識人にとって、「ジャポネースまでが統合している」という事実は、欧米との格好の相違点だった。
 日系社会の側も、二世世代が日系団体運営の中心を担うようになった今世紀以降、一般社会が期待するオリエンタルなイメージを敏感に感じ取って、カラオケや鳥居、日本庭園、和太鼓、日本祭りなど異国情緒あふれる事業や活動を、無意識に膨らませてきた部分も否めない。
 それらが相まって、実物以上に良好な印象を膨らませたのかもしれない。
 欧州移民と異なる盛り上がりをみせた他の理由としては、時代背景の違いがある。BRICsの一角として高度経済成長期にあるという現在の経済情勢、日本食や漫画アニメなどの日本文化ブームという機運、日本から投資の期待なども挙げられる。

日本に投影される日系像

 2014年のサッカーW杯開催を目指して、ブラジル政府は06年に地デジ日伯方式を採用し、すぐに民間の各TV局は放送を開始した。07年の連邦レベルの百周年執行委員会結成など、「ジャポネーズ・ガランチード」(約束したことは必ず実行する)という日本移民のイメージが今度は日本政府に投影され、連邦政府からの期待につながっているという相乗効果もあるかもしれない。
 その底流には、ブラジルは長らく文化的、歴史的に近い欧米密着型の外交政策をとってきたが、左派政権となった現在は「新しい選択肢」を求めている状況もあるだろう。
 北東伯やサンパウロ州のファゼンデイロに代表される伝統的な大農場主の家系が力を持つ従来の政治体制から、自動車産業などの台頭により社会構造が変化し、労働者階級に支持される庶民階級出身の政治家が力を持つようになるという、政治的な地殻変動が起きている。
 中産階級や貧困階級出身で、苦学をして社会上昇を果たしてきた現政権主要メンバーは一般に、同級生の中にいた「まじめ」で「勤勉」な日系人に強い親近感をもち、信頼している。
 左派新興勢力は「欧米先進国は我々途上国を搾取する」との歴史観をもって政治活動を行ってきており、「西洋でない経済大国」日本に、日系人のイメージである「ガランチード」を投影し、期待をするようになっても無理はない。
 加えてマスコミ各社からは当初、日系多国籍企業から大量の広告が見込めるとの皮算用も強かったことは間違いない。実際には期待ほどではなかったようだが・・・。
 ともかく、移民による百年の共生の実績、連邦政府の日本への期待、ブラジルの高度経済成長期の新しい選択肢を求める機運などが相乗効果をもたらして未曾有の大量報道に結実したといえそうだ。
 百周年が新世代に喚起した日系アイデンティティの強化は、一般社会からの最大の贈り物であり、今後一世代、二世代にわたって日系社会はもちろん、日本や日本進出企業にも計り知れない恩恵をもたらすだろう。(深)

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