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戦後移民の役割とは何か=特別座談会=御三家の2会長に就任=世代交代はどうあるべきか=どう読む波乱の90年代=戦後派の活躍はあと10年?

祝103周年 移民の日特集

ニッケイ新聞 2011年6月30日付け

 今年に入り〃御三家〃のうちの2団体で戦後移民が会長に就任したことを受け、日系社会の世代交代について、その中における戦後移民の役割について語ってもらう座談会を企画した。援協、県連、文協それぞれの役割、そしてコチアや南銀がなくなった90年代という波乱の時代に対する分析と、さらには2000年代以降とくに活躍が顕著になってきた戦後移民の姿について、忌憚なく論じてもらった。(編集部)

援協の役割の変化

深沢=援協の役割が変化しているようですね。
菊地=援護協会は半世紀にわたって活動し、友好病院は日系社会、日本政府のおかげで立派な病院となった。現在はブラジル社会に対する比重が大きくなっている。本来は日系社会の人たちのために作られた病院だが、いま利用しているのはブラジル人のほうが多い。
深沢=日系人の利用者の割合はどれくらい?
菊地=3割ほどですね。
深沢=残り7割は地元ブラジル人の利用ですね。
菊池=でも、こちらの援協福祉センターは9割が日系の方です。
深沢=ブラジル社会に向けたサービスが広がりつつあると。
菊地=日系社会への対応だけでは収支面でのカバーが出来ない。ブラジル社会の中での日系人の活動の大半がそうだが、日系人だけを対象にしていた活動は多くが頭打ちになってきている。
 生き残ってきたところは、ブラジル社会に向けた比重を徐々に大きくしてきたところ。福祉・医療も皆そうですよ。福祉関係は日系社会中心に手助けが必要な方を支援している。でも、医療の方は日系人対象だけでは実際に採算が合わない。
 援協の職員は直接・間接あわせて1600人もいる。病院だけで1200人。それから各老人施設や、福祉センターを入れると1600人。臨時の医師・パートを加えると1800人から1900人にもなる。
深沢=利用者の数は非日系人を入れてどれくらいですか。
菊地=とても多い。毎日2千〜3千人。年間にしたら数百万人ですね。

日系最大の組織に成長

深沢=コチア産組の最盛期には職員は1万人以上いたと聞きました。
園田=職員は1万8千人。組合員が1万2千人でした。私はコチアの仕事にも携わっていたのでよく覚えている。
深沢=えっ、職員の方が多かったんですか。
園田=多かった。最後の方だが、各地方の支部などを含めるとそうなる。
深沢=お金を稼ぐ組合員より、人件費を使う職員の方が多いというのは、いびつな収益構造だったんですね。まあその件は置いといて、援協はコロニア史において、すでにコチアにつぐ巨大な組織になったのでは。
菊池=援協は10の事業所を持っています。
深沢=南米銀行の社員はおよそ1千人ですか?
園田=そんなものでない。2千人とか。
深沢=今の援協よりも多かったのですか。
山内=多いでしょう。支店がサンパウロ州内でも100近くになっていた。
深沢=でもコチア、南米銀行がなくなった現在、援協が一番大きい組織ですよね。ブラジル社会との関わりも大きくなるのは成り行きですね。
菊地=大きいが、しっかり運営しないと怖い。今までは病院が、福祉事業をカバーしてきた。今は病気、精神病への対応だけでは公益団体として生き残っていけない。
 援協にとっての課題は連邦政府、市、州が認可しない公益団体の仕事はダメだと言うこと。認可がなくなると、年間何千万単位の税金がかかってくる。日系社会の組織は全て同じ問題を抱えている。サンタクルス、援協、文協、県連、県人会も、市が必要としている事業をやらないと公益団体として認めてくれない時代になった。非常に厳しくなっている。コロニアの困っている人を助けるだけでは、公益団体として認められない。
深沢=ブラジル政府との制約の中で、援協が持っていた精神を伸ばしつつ組織として成長させていく段階で、戦後移民の菊地さんが会長に就任した。自分の役割は何だと思いますか。
菊地=我々は日本人。どんな困難があっても、私たちの先輩は色々な問題を乗り越えてきた。我々も泣き言を言っていられない。あらゆるノウハウを駆使して次の事業を興し、社会的役割を果たしていく。一般企業以上に努力が求められると思う。人が嫌がる仕事、どうにもならない仕事を何とか整理、改善して社会に貢献できる仕事に切り替えていく。
 非常に厳しいが、それを継続しなければならない。流れに乗って漂流するのではなく、川を上っていく気概が必要です。

日本祭りで気を吐く県連

深沢=県連はこの15年で日本祭りを育て上げてきた。地元主催で日本文化をテーマにした祭りとしては世界最大規模でしょう。そのなかで園田さんが会長に就任した。何をすべきだと考えていますか。
園田=世代交代ということだと県連の場合は少し違う。与儀前会長は二世で、私はその代理だと思っている。沖縄県人会長が変ったために、県連会長も任期半ばで代わりが必要になり、私が代理として1年間やることになった。だから世代交代ではなくて、また一世のほうに逆行している。私のやることは限られる。リーダーシップも取れない。極端に言うと選ばれた会長ではない。
 とにかく私が県連ですべきことは、第一に各委員会に責任を持たせること。委員会に決定権を持たせ、それを役員会で実行に移していくという方針を定着させること。
 日本祭りは14回になるが、形は変わってきている。昔は郷土料理の紹介が主だった。現在は県人会の活動資金を稼ぐ場にもなっている。多くの県人会は日本祭り準備の手伝いで40人から100人の会員が一堂に会して活動する。それが非常に意義を持っている。
 ただ非常に危険なのは大きな金額が動くこと。
深沢=100万レアルほどですか。
園田=それ以上です。日本祭りの収支を10%間違うと県連の財政破綻につながる。県連内部でも、「日本祭りをやめるべきでは」という意見もあるほどです。
深沢=文協の一年間の予算が200万レアル前後ですから、それとほぼ同額が3日間で動くというわけですか。
園田=詳しい金額に関してはいえないが非常に危険ともいえます。
深沢=イベントですから、雨が降るだけで収支が変わりますよね。
園田=そうそう。祭りは祭りとして、文協や援協に比べて県連はどういう組織か。県連としては「定款を踏み外さない経営」「援協や文協の領域には入らないこと」を決めている。会長とか理事によっては、「他にこんなこともやればいいじゃないか」という人もいる。あくまでも定款を踏み外さない経営をやったほうがいいのではと思っています。

県人会長6割が戦後移民

深沢=各県人会では二世の会長が増えてきていますよね。
園田=はい。4割ほどが二世です。
深沢=その4割をのぞいた、全ての人は戦後移民では。
園田=ほぼ全てではないですかね。
深沢=与儀さんが百周年の時会長をされて、その後に誰が継ぐかと言う時に園田さんが選ばれた。どういうことを求められていると思うか。
園田=県連というのは法的整備が未熟である。では、県連は何のための組織か、答えは3つある。
 第1に、県連は県人会の集合体であること。県連だけが資金を豊富に持っていても意味が無い。県人会を助けるための県連でないと。
 第2に、アセベックス(日本留学生OB会)。現在交流のほとんどが県費留学生なんです。ふるさと創生の各地方自治体と県連がタイアップして開催したがまったく交流がない。アセベックス、ふるさと創生を経験した人が県人会の会長にはなっているが、まだ足りない。県連は、お金を儲けるのではなくお金を使う組織でもあるから、基金を作って何とかアセベックスを利用したい。
 第3に、日本企業とのつながりを太くすること。昔から言われているが日系コロニアと企業の接点がほとんど無い。鹿児島は1、2人は駐在員の会員がいますよ。マナウスにホンダの系列会社ホンダロックがあるが社長は宮崎出身、親が鹿児島出身で積極的に県人会活動参加している。
深沢=たしかに駐在員が県人会に入るのは珍しいですよね。
園田=あと、今日本は歴史的に未曾有の時代です。日本は今まで子供としてブラジル県人会の面倒を見てくれた。だから、どんな形でも日本に何かをお返ししなければ、という形に県連の考えは変わりつつある。
 例えば、日本の被災地の専門家をこちらの経費で呼ぶとか。東北6県で、技術はあるが半年年間仕事がない専門家をよんで1カ月から3カ月間指導をしてもらうなど。県連ではそういった人を呼ぼうと用意している。今こそ初めて日本にお返しできるのではないか。
鈴木=それはユニーク。ぜひ実現して欲しい。
 やはり、二人の話を聞いて、世代交代とブラジル社会化はコロニアの組織・団体にとって不可避の流れだと感じた。戦後移民の仕事を考える場合も、大きな時代の流れの中で役割を考えなければならない。現在は70歳前後の戦後移民たちが第一線で頑張っている。その人はせいぜい頑張ってもあと10年です。

戦後移住50年祭とは

鈴木=戦後移民の参加は1990年代の後半から叫ばれ、参加が実を結んだのは2003年の戦後移住50年祭だと思います。これが戦後移民の一つのエポックとなり、その後、続々と実績をあげていった。大きなうねりとなって、文協会長選挙で谷広海さんがいい所までいって惜敗した時、その流れの頂点に達した。結局、文協会長にはなれなかったが、その後の戦後移住50年祭の成功の背景となり、様々な意味で戦後移民の参加実績が増えてきた。
深沢=「参加しない戦後移民」という文言があったが、80年代から県人会には戦後移民の会長が多くいた。菊地さんも岩手県人会長でしたね。
菊地=私も県人会長として30年祭、ふるさと創生、第一回日本祭りの手伝いなどをしてきた。
深沢=戦後移民は確実に参加していた、文協の中にもいたのでは。
鈴木=参加はしていたけれども、大きな横のつながりというものはなかった。それが実を結んだのは50年祭の成功だったと思う。そのとき、日本人特有の共同体の特性「和」「協働」の精神を見事に発揮した。
深沢=戦後移住者は単純に5万人といわれるが、実際に話を聞くと「同船の半分は日本に帰った」との証言が多い。つまり、実数としては約2万5千人だろうと。1958年の日系人口調査では43万人だったので、存在感を表そうとしても全体の6%にすぎなかった。年代的にもはるか上の人が沢山いる中で、むしろ頑張ってきたと評価されてもいい。トップになった人は少ないが、大半を占める戦前移民と二、三世の中で、十分に存在感を見せてきた。
鈴木=その意見には異論がある。とにかく戦前移民と戦後移民とでは社会参加に対する価値観がかなり違う。
 戦前移民は日本の農村社会で生活してきて、入植後も農村で日本的な価値観を培ってきた。お互いに助け合う仕事をしあう、信頼しあうという理想的な共同体の精神ですよね。そういった精神があったからこそ、戦前移民の人達の精神が援協を始め、公共団体の仕事を創ってきた。
 戦後移民はその後にやってきて、戦後の民主主義や価値観の大きな変動のなかで生きてきた。だから考え方はどうしても個人主義ですよ。自分の幸せを考える意識が強くなったので、戦前移民の旺盛な共同体への参加意識に比べると、戦後移民はどうしても弱かったんです。
 そんな中で、少しずつ戦後移民の参加きっかけを作ったのは50周年のイベントだったと思う。

90年代への分析が不足

深沢=その戦後移住50周年以前に、90年代に対する分析反省が今まで足りなかったという気がします。「コロニアにとって90年代とはどんな時代だったのか」という議論がもっとされていい。コチア、南米銀行がなくなったあの時代に関する分析なくして、なぜ今こうあるのかという議論はできない。
鈴木=90年代はコロニアにとって波乱に満ちた時代だった。
深沢=波乱のショックが余りに大きすぎて、コチア崩壊について誰も語らない、語りたくない状態がいまだに続いているように見えます。
鈴木=その時代を生き抜いた山内さんのお話を聞いてみましょう。
山内=難しい話だね。
深沢=一番大変な時期に文協会長を務めていたわけですからね。あの時代はデカセギで若い人がみんな日本へ行ってしまった。地方の文協の多くがろうそくの炎がふっと消えるように活動をやめていった。それに加えて、80、90年代に戦前移民の家長世代が寿命を迎えたということが重なった。つまり、コロニアは家長世代という頭と、若者という足をもがれた中で90年代を迎えたのではないか。軍事政権のくびきから逃れて民主化し、世界経済のグローバル化の波に呑まれた。
 上にあった重しである戦前移民の重鎮が姿を消し、戦後移民が頭を出すスペースが出てきた。 90年代までの文協にとって、その意向を全伯に届かせていた本当の足腰はコチアであり、南米銀行だった。文協の歴代の会長を見て思いますが、文協自体が地方に組織を持っているのではなく、やはりコチアや南銀が土台にあった。
山内=そのような形で活動ができたのは94、5年まで、つまり、コチアなどがつぶれるまででした。それまではいつも南米銀行がサポートしてくれていた。しかし、私達が一番金を必要とした修好百周年、天皇陛下が98年に来られた時にはその後ろ盾がなかった。サンパウロ州全土を挙げて各文協がリッファで最低限の資金は作った。だがその後、資金繰りが難しくなった。それが文協停滞の原因の一つ。
深沢=この時代にコロニア自体がすでに大きく変質してしまった。コロニア滅亡論が唱えられていた時期があったが、従来の「組織的なコロニア」という存在は90年代に滅亡していたのかもしれません。コチア、南伯、南銀の消滅とともに。
山内=百周年の時も資金を作ろうとすれば出来た。百周年時はたくさんお金を集めたから。でもそれが出来なかったのは、過去の歴史を知らない人たちが牛耳ってしまったからです。私自身も離れていたから一緒にやる気はなかった。私自体が古い一世の流れの中で生きて文協の会長を務めてきた。だから新しい連中とはそりが合わない部分があった。
深沢=今の文協はおそらくエリート二世といった人たちの社交場となっている。百周年以前、文協役員はコロニアの内側しか意識していなかったが、百周年の直前からはブラジル社会への顔の部分が極端に強くなった。組織が内向きから外向きになるというのは、世代交代の結果だと思う。
 もう一つの新しい現象は、90年代に活動停止した日系団体が百周年を前にして活動を復活させてきたこと。ウバツーバ、サンカルロス、ジャボチカバウ、レジストロの地方の日系団体2つ、アクレ、パリンチンスなど。これは二世がブラジル社会に対して日系エスニックとしての主張をする拠点であり、同じ顔をしているエスニックが集まる社交場としての必要性から復活してきた。そこでは日本文化がキーワードであって、日系人だけが集まる団体ではなくなっている。日系団体が生まれ変わりの時を迎えているようです。
鈴木=しかし、日系人という概念はどんどん崩壊していくのでは。
深沢=一見そう見えるんですけど、あるていどのゆり戻しがあるようです。ブラジル社会の中で日本人の顔をした者同士は、言葉はポルトガル語になっていても、ある種、特別な親密感が残るのだなと最近思います。日系人を中心にした緩やかな日本文化の親睦団体でしょうか。

〃世代交代〃への異論

山内=先ほどの90年代の議論について。文協会長として過ごしたわけだが、私は世代交代という言葉は好きではない。
 すでに文協の会長時代にもそうだったが、一世二世三世の隔てはない物として考えてきた。理由は、戦後移住者であってもなんであっても言葉の壁は共通の問題だったから。戦後移民でブラジル語が堪能な人も結構いるんですよね。90年代にすでにいた。その頃、様々な日系団体で仕事をしていた戦後移住者もいた。私は、団体で仕事することは育ってきた環境と、その人の性質が左右すると思う。差別というか分け隔てする必要ないと思う。
深沢=つまり、その人の特性によると。
山内=言葉にしてもそう。仕事ができるかどうかは、語学力とはあまり関係ない。世代交代を強調しても意味ない。戦前戦後の括りはすでに過去の問題。戦争はもう半世紀前のことでしょう。それでもまだ分け隔てすることは、新聞社の偏見だと思うんです。
鈴木=世代交代というのは分け隔てではなく、自然の流れでしょう。親から子、子から孫へ。
山内=自然でいいんですよ。それをわざわざ言わなくても。
園田=私も山内さんと全く同じ意見です。申し訳ないが文協の選挙の時、「我々一世が…」という言葉がありましたよね。私は一世だが、一世とは思っていない。世代交代という言葉の中に偏見があるのではと思う。
深沢=菊地さんはどう思いますか。
菊地=山内さんが言った通りだと思う。今でもポルトガル語は出来ないが、商売とか交渉力と言うのは言葉ではない。
鈴木=しかし、今回新聞社が世代交代で座談会を設けたのは、本来自然であるべき世代交代が、必ずしもうまく言ってないんじゃないかという現状の認識が背景にあるのでは。山内さんが言うように自然に世代交代をする社会であれば問題ないが、実際には大きな課題となっている。
深沢=はっきり言わせてもらえば、私の印象では文協は世代交代したが、援協、県連はまだしていない。一世の方が中心になって日本語で運営しているイメージがある。一世二世の区別はないといっても、何か隠された分水嶺がそこにあるような気がします。上原会長以降の文協や百周年協会という存在は、分水嶺を越えたという印象を持っています。良くも悪くも、ですが。
鈴木=山内さんが90年代に文協の会長を務めていた時は、世代を考えないで共通の目的に立ち、やりたい人が集まってやればいいと広い気持ちだったかもしれない。
 しかし、文協会長選挙で谷さんが落選してから、理事会を占めた二世には戦後移民に対する警戒心、対抗心が働いていたような気がする。それ以降、文協の中枢には戦後移民が参加したくても参加できない壁が出来てしまった。百周年協会のお陰で祭りは非常にバラエティに富んだが、一過性のお祭りで終わってしまった。
 御三家のうち、援協、県連は戦後移民と二世との協調体制が出来ている。そして両者の間には互いに緊張と刺激の関係がある。それが運営の大きな力になっている。
 一方、文協は戦後移民が入っていないため緊張や刺激がない。その執行部がずるずるベッタリで仕事を続けていくから2つの団体に比べ機能が低下し、文協はレームダック(死に体)に陥っていると思う。だから、何とか文協は原点に立って再生のきっかけを作ってもらわなければ。

150周年まで残る組織を

菊地=援協で私が会長になる事は日系社会も驚きだったと思いますよ。酒井清一さんの後に森口イナシオさんと、優秀な二世が二人続いたんです。それが一世に戻るとは逆ではないかと言われるかも知れない。選挙の時も私が無理しなかったらそのままでした。ですが、なぜ私が無理をしたか。それは、ブラジルに来て嫌な思いばかりを抱いている人にいい結果を与えたい、困っていたら何とか助けたいと考えたからです。
 日本政府の支援もどんどん少なくなっていく。誰がその人たちに手を差し伸べるのか。それができるのは援協以外にない。援協が10の事業所だけもって安穏としていたら、これからはどんどん大変になっていく。病院以外の施設は50パーセントが赤字です。それをどうカバーしていくか。今の活動だけでは将来は消滅する。
 一万人以上と言われる日系社会の高齢者を、あと10年間は見守ってやらなければいけない。今援協がなくなれば日系社会も大変ですよ。戦後移民の考えだけでなく二世三世と話しながらレールを敷き、病院も他の施設もブラジル社会で採算の合う事業にしないと。
 あと50年は援協に頑張ってもらわなければ。移民150周年に援協が残っていないと。
 文協、県連にもそういう仕事がまだまだある。そういう仕事を探せば、公益団体としての活動も継続できる。
鈴木=援協が新しい事業に参加するのは大切なことだが、傍から見ていると果たして財政的に大丈夫か、と心配になる。どんなにいい事業でも赤字を出したら長続きしない。だから、どうか赤字を出さない経営をしていただきたい。
菊地=我々にもその懸念はある。病院が大きくなりすぎている。でも今止まれば競争に負ける。ユダヤ系はアインシュタイン、ポルトガル系はポルトゲース、ドイツ系はオズワルド・クルスとある。
 だから、日系社会のためにも利益を出していかなければ。これからは、やる気があり組織を活性化できる人たちが必要になるでしょう。
        ◎
深沢=それでは最後に山内さん、戦前戦後一世二世関係なく、いま求められるリーダー像とは。
山内=日系団体のリーダー像・・・、難しいな。
深沢=今の文協に何が足りないかでもいいです。
山内=そりゃ、いまはリーダーがいないってことだろうな(一同、笑)


ブラジル都道府県人会連合会 会長 園田昭憲
 鹿児島県出身、63歳。14歳でパラグアイに移住後、進学のため日本に帰国、74年にブラジルに再移住。02年にブラジル鹿児島県人会の参与、06年に会長に、11年から現職。

サンパウロ日伯援護協会 会長 菊地義治 
 岩手県出身、71歳、59年に来伯。85年からブラジル岩手県人会の役員、91〜98年に会長を務めるかたわら県連第一副会長として、日伯修好100周年(95年)の総務委員長、移民90年祭の総務委員長。戦後移住50周年委員会(03年)の副会長。援護協会では、97年から理事、01年に副会長、11年から現職。

ブラジル日本文化協会 元会長 山内淳
 サンパウロ州ミランドポリス市第3アリアンサ生まれ。79歳。1973年から文協理事を始め、89年から副会長、91年から99年まで会長職。その後、評議員会長などを歴任。現在は永年評議員。

サンパウロ人文科学研究所 所長 鈴木正威
 中国・青島生まれ。79歳。59年に来伯後、日本語教科書刊行委員会、日本語普及会の局長を歴任、74年から日本文化連盟(アリアンサ)理事、09年から現職。

本紙編集長 深沢正雪
 静岡県出身、45歳。92年渡伯、パウリスタ新聞記者の後、群馬県大泉町でデカセギ生活を経て99年に当地に戻り、01年からニッケイ新聞記者、04年から同編集長に。

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