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皇室挙げて被災地に巡幸=慰問と慰霊に尽くされる=復興奮起させるお取り組み

新年特集号

ニッケイ新聞 2012年1月1日付け

 平成23年は3月11日の東日本大震災に振り回された1年であった。岩手、宮城、福島沖で地震が起こり1000年に一回とされる巨大な津波が人と家を呑みこみ、漁船や自動車をも弄び、鉄道や仙台空港までも水浸しにした。津波は福島原発を襲い、「原発事故」という大きな惨事を引き起こし、政府も東京電力も右往左往の悲喜劇を演じたのは、記憶に新しい。
 事の重大さに逸早く気付かれた天皇陛下は3月16日にビデオメッセージをご発表になり多くの被災者を激励されたが、この異例の声明に国民は深い感銘を受け、災禍に遭った港や瓦礫の除去など復旧と復興に立ち上がりを見せたのは眞に頼もしく、必ずや歴史に書き残されると信じたい。
 死者と行方不明者が2万人という悲劇の大震災は、さすがの人間も自然の威力にはとても勝てないの事実を物語るものだが、平安時代に発生した貞観地震(869年7月)の津波が宮城・福島を襲った惨劇と同じだとされる。
 これを記録した「日本三代実録」は、「陸奥の国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに飲み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合ったりなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・障壁などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった」としている。
 これらの文献を基に専門家らは、防波堤の整備などの対策を強化すべきだと警告していたけれども、どうも実現はしなかったようだし、この「悔い」は永遠に記録として刻まれるであろう。あの福島原発にしても、東電は津波の高さは6メートルほどと予測していたが、震災では高さが15メートルに達したとの見方が強く、あれは「事故や災害」ではなく「人災」と極め付ける学者もいる。
 いずれにしろ、この国家的な災害に対する皇室の動きは素早く、天皇・皇后陛下を始め皇太子、秋篠宮さまらが妃殿下と共に被災地を巡幸されて激励なされたのは、とても喜ばしい。
 両陛下は皇太子の頃から、あの戦争で亡くなられた方や戦没した兵士らの慰霊に努められサイパン島や硫黄島をも訪問されている。沖縄が復帰したのちの1975年7月17日には、糸満市の「ひめゆりの塔」に献花しようとしたところ、壕に隠れ潜む沖縄解放同盟の知念功が火炎瓶を投げつけるという事件が起きている。このときは、沖縄国際海洋博覧会が開かれており、皇太子さまが訪問することもあって警察庁も、警備課長の佐々淳行氏を指揮官に任命し、5000人の警察官を派遣し警備の強化をと主張したのだが、現地側の反対もあり実現しなかった。
 これと同じように天皇陛下は、阪神大震災のような自然災害にも現地に向かわれ激励の旅を何回も繰り返している。あの関東大震災のときは、貞明皇后が赤十字病院を慰問され摂政宮(後の昭和天皇)は横浜を見舞っているし、高松宮さまは昭和46年に橋本龍太郎厚生政務次官(首相)の案内で自衛隊機に乗り硫黄島を慰霊したが、そのときに散華した兵士らの遺骨が散乱する洞窟に着くと殿下は地べたに正座し、両手をついて頭を垂れたので周囲の人々は感極まったそうだ。
 そして—次の洞窟に案内されると、海上自衛隊員も軍靴で入るのに高松宮さまは、靴と靴下を脱ぎ裸足で米軍の火炎放射器などで殺戮された日本兵の骨が散らばる壕内に向かい人々を驚かせた話もある。こうした皇室の慰問や慰霊は決して今上陛下だけのものではなく、二千数百年も続く皇室の伝統と受け止めたい。
 高松宮さまは、海軍大学を卒業し海軍大佐として活躍しており硫黄島防衛の司令・栗林忠道中将や日本の死者2万1000人(うち海軍8000人)、米軍死者6800人、戦傷者2万2000人という激戦の記録を承知していたものと思われる。この硫黄島の秘話とも関連するのだが、大震災発生の時から自衛隊が実施した救援活動も大功績を上げ被災者から感謝の拍手が巻き起こった。
 防衛大臣は「10万隊員を派遣」とし、東北方面総監の君塚栄治陸将を司令官に任命し、同司令官は、陸海空軍を指揮し遺体収容9500、人命救助約2万人や給水給食、入浴支援と目の回るような忙しさを眠るのを惜しみ挺身したのは、昔なら間違いなく金鵄勲章ものである。
 「ロ・レーガン」や空軍と沖縄駐留の海兵隊などを派遣した米の「トモダチ作戦」も忘れてはなるまい。1万8000人の兵士らが参加し宮城県気仙沼市の大島救援や米本国からは原発事故の専門部隊が福島に向かい事故の拡大防止に活躍している。また、台湾からは義捐金として200億円超が送られ、世界一の記録となり、日本の新聞の多くは—このニュースを無視し報道しなかったが、この朗報を知った民間の婦人らが台湾にお礼をしたいと募金し現地の新聞に「大変ありがとう」の広告をし、余った募金は被災者救援の資金にと寄付している。
 天皇陛下にも多くの国々から見舞いの電報や書簡が届き、大震災と福島原発は国際的な話題になったけれども、皇室の方々の被災地慰問などで現地も力付けられ復興へと立ち上がっている。勿論、原発の事故が完全に幕となるのには、10年や20年の時が必要だろうが、第一次的な危機は突破したと見たい。
 天皇と皇后両陛下は3月27日に自衛隊機で宮城県を訪問しヘリコプターで南三陸町と仙台の被災地を視察し避難所を慰問され「本当にお気の毒、どうかお大事に」と優しく声を掛けられ、涙ぐむ人々が多く見られた。仙台の避難所では、津波で家が流された佐藤美紀子さん(64)が、流失した家の土台だけが空ろに残る自宅の庭に咲いた黄色い水仙の花を皇后陛下に贈ると、美智子皇后は大変お喜びになり「早く元気になってください」と語りかけ避難所は和やか雰囲気に包まれたそうだ。また仙台市長の奥山恵美子さんは「天皇陛下は一人一人に丁寧に声を掛けられ、多くの被災者が癒された。有り難い」と語っている。
 地震と巨大な津波で家族を失い、あるいは行方不明になった人々を心配しながらも、罹災者たちは、両陛下や皇族方の見舞いに心の底から感動し、復興に頑張ろうと奮起させる—両陛下の被災地への巡幸には、こんな手品のような力が秘められているのには驚くしかない。
 天皇陛下は78歳を迎えられたし、皇后様も77歳とすでにご高齢であり、天皇陛下は前立腺癌、冠動脈狭窄の難しい病気だし、美智子さまも頚椎症性神経根症による肩の痛みを堪えての巡幸なのであり、こんな病状への配慮も大切なのは、云うまでもない。
 陛下は11月に入ると、風邪が悪化し2〜3日の予定で東大病院に入院され皇后さまも看護のため同行されたが、そのうち体温が39度を超し、退院は24日になってからである。このためブルネイ国王との宮中晩餐会や新嘗祭への欠席を余儀なくされている。こうした病気を押しての大震災慰問なのであり、こうした国民への美しい心配りには、ただ—ありがたいと申し上げ感謝したい。(遯)

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