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『子供移民 大浦文雄』を読む=モジ 則近正義=第3回

ニッケイ新聞 2012年5月25日付け

 さて18歳になり、矢張り福博村に住んでいた上村俊幸と出合う。
 第2章の「2、第1期放電時代(村の文化運動時代)」「青年会入会」を読むと、青年会々長だった上村俊幸に青年会に入らないかと誘われて、大浦君は入会する。会館の外で焚き火をして、夜中の1時、2時まで話し合ったそうだ。
 後、詩集『スザノ』の後書きを書いた。
 大浦君より3つ年上で、47歳で没したとある。誠実な人柄だったそうだ。
 上村君と僕は、短歌会で良く一緒になったり、僕がモジの伯銀の庭を造って毎月の管理に行っていた頃は、トラクターを購入する為の農業融資の手続きに来ていた(スザノには、伯銀の支店が未だなかった)。上村君と話し合うことが多かったが、彼が青年会々長だったことや、若死をしたことや、大浦君と交遊があったことは知らなかった。
 第2章の「講演記録 準二世」を読むと、母国の敗戦で《もう日本に帰れなくなったのなら、我々(準二世)がここに故郷を作ろうじゃないか》という理念によって、先ず日本学校を再開させた。
 この時大浦君は、「子供を出してくれますか」と言って村内の日系人の家を1軒1軒歩いたという。
 なお、大浦君は日語校の代用教員を務め、「第1回日伯児童作品展覧会」を開き、「第1回福博村民地村勢調査」(この時も、大浦君は1軒1軒歩いた)を行い、「博物研究会」を村に作った。
 ここから、大浦君の《子供や、孫の心のふるさと》となる村づくり運動が始まる。
 さて、大勢の日系コロニアの一流知識人(古野菊生、橋本梧郎、横田恭平、古田土明〔こだとあきら〕、古田土光良〔みつよし〕、江見清鷹〔えみきよたか〕達)と交流するようになり、そうした大浦君の情熱的で積極的な活動によって、福博村は日系コロニアの中の理想卿の一つとなる。(日本の武者小路実篤が宮城県日向に計画した〈新しき村〉は途中で挫折したけれど——)
 本紙の第2回訪日の項に、《東京新宿駅構内の壁に刻まれた実篤の詩をしばし立ち止まって書き写す》とある。
 大浦君は農業の面でも優れた指導者であり、堅実な事業家でもあった。福博村最大の養鶏場(10万羽)を経営していた。米国製の舶来品〃インパーラ〃(スマートな薄水色の半スポーツ・カー)を乗り回していた。
 大浦君が救済会と関りを持つようになったのは、渡辺マルガリーダから募金活動の協力を要請されたからだという。
 救済会と関りを持ち始めたことを、大浦君は《天職》と書いている(154項)。これを見るだけで、大浦君の不動の精神が良く分かるのではないか。ここに渡辺マルガリーダに関する詩が5篇(ポ語訳詩2篇と共に)ある。
 大浦君は救済会の理事会で必ず起立して発言していたが、もう一人立って発言する人がいた。
 それが高野芳久(ペンネーム耕声〔こうせい〕。俳人、作家、山梨県人会々長、県連会長。憩の園に句碑がある)で、或る日、《「『コロニア文学』に載っている恋愛詩篇の作者はあなたですか」と大浦君に話し掛けてきて、その時からお互いに心情的に相通ずる仲になった》と書いてある。
 大浦君は1回目の訪日(高野が強力に推したため、吉川英治文化賞受賞に参加した渡辺マルガリーダの3男ジョゼ夫婦に付き添った)の際、高野芳久に同行を求めた。
 朝日新聞が主催する朝日福祉賞を受賞するため2回目に訪日した時にも同行して貰い、「富士山に登ろう」と高野が言って、御坂峠まで行っている。本文中に、御坂峠で撮った頂上の雪が美しい富士山の写真がある。
 この時、《高野が「〈人を泣かせた人には富士山は姿を見せない〉というジンクスがあるが、大浦さんは大丈夫か」と言って笑った。「大丈夫」と文雄は答えた》と書いてある。
 僕は日本にいた時、東海道を何回も汽車(急行)で通ったことがあるが、何時も曇っていて1度も富士山を見たことはない。人を泣かせたことはないと思うが。(つづく)



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