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国家事業救った8人の侍=知られざる戦後移民秘話=第6回=「まだ帰っちゃいかん」=新たな特命、ダム本体も

サントアントニオ・ダム工事現場の様子。イタイプーでも同じような光景がくり広げられた(写真提供=荒木)

 ドゥーーン。腹に響く爆破音が現場に響いた。仮排水路の上流側と下流側の入り口の壁を爆破した音だ。すごい勢いで水が入り込み、一気に20メートルの高さまで水位が上昇した。おかげで浚渫船が激流に流されて沈没するという予想外の事態が起きたほどだった。
 雨期開始寸前の10月14日、無事にイナウグラソンにこぎつけた。世界の建設業界から「ブラジルには不可能」と見られていた工事の出だしが完了したのだ。これでパラナ川は仮排水路を迂回できることになり、本流があった部分をせき止めてダム本体の工事を続けることが可能になった。
 裏方を担った〃サムライ〃たちは静かな充実感に満たされていた。
 荒木は「これで終わった。元の現場に戻ろうと思ったら『帰っちゃいかん』と言われた」とふり返る。「どうしたんだろう」と思ったら、「ダム本体の堤体工事もやってくれ」と頼まれた。こちらの方も工程が9カ月間も遅れていたことから、新しい特命が下った。荒木は「苦労が認められたんだと喜んでやりましたよ」と思い出す。
 ダム本体のタービンが入る〃ダムの心臓部〃の施工も、袋崎らに任された。もっとも難しい建築技術が要求される部分だ。この現場には4年間いて、例の工法を完成させた。
 スライド型枠工法は、今ではブラジル中に普及し、一般的な工法になった。袋崎は「あれ以前、ダムを作るのには70カ月かかったが、今では40〜45カ月でできるようになった。それぐらい画期的な工法だった」とふり返る。現在、ブラジルにおいては水力が全発電量の83%を占めるが、その多くのダム建設に青年隊員が関わった。
 イタイプー建設にサンスイ社の営業代表として参画していた平崎靖之(66、広島)は「あの頃ね、〃イタイプーの三羽烏(がらす)〃として現場では有名でしたよ。荒木、袋崎、黒木でしたか」と懐かしそうに言う。「だってロナンさんといえば、ダム建築業界で知らない人はいない有名人です。その彼がいつも懐刀のように大事にしていたジャポネースが3人いた。彼らが居ないとまともな仕事にならないって。それが三羽烏ですよ」。
 サンスイ社もセメント運搬用袋を大量に納入すると同時に、日本の精電舎と協力して、特殊な技術で作られた継ぎ目のない作業用カッパを数万着納入し、現場で喜ばれたという。
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 ダム本体の高さは196メートル、提頂長は約8キロもある。日本最高の黒部ダムより10メートル高く、16倍も長い。貯水湖の表面積はなんと琵琶湖の2倍に相当する1350平方キロで、貯水量にいたっては日本にある約2600ものダムの総貯水量を上回る290億立方メートルを誇る。
 ダム本体には20機のタービンが設置されているが、イグアスの滝の水を全部寄せてもタービン2機分の水量しかないというから、湛水量の多さが分かる。
 全伯のセメント工場がフル稼働し、輸送機関が総動員されたことは言うまでもない。まさに国家の威信をかけた世紀の大プロジェクトだった。
 袋崎は工事が終了した時の気持ちを、「ルーベンスから、こんなに大きな現場で計画通りに運んだのは世界でも例がない。よくやってくれた、といわれた時は本当に嬉しかった」とふり返った。ルーベンスとはイタイプー建設時の発電所側の責任者で〃ミスター・イタイプー〃と呼ばれたルーベンス・ビアナ・デ・アンドラーデ初代専務理事のことだ。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)

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