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日本に戻るか定住か=デカセギ大量帰伯世代=(3)=「母弟を呼び寄せたい」=ワケありの父とイジメ

ニッケイ新聞 2012年6月16日付け

 「私がこっちで頑張って受け入れ態勢をつくり、日本にいるお母さんと弟を早く迎えに行きたいんです」。2月初めにミナス・ジェライス州都ベロ・オリゾンテ市であった日本祭りのブースで、通訳ボランティアとして働いていた15歳の女の子Aさん(匿名希望、三世)は、切実な表情でそう言った。
 記者が日本生まれだと分かると、「私も日本に住んでいたんです」と嬉しそうに身を乗り出し、両親に連れられて生後3カ月で日本に移り住み、埼玉、群馬、北海道などを転々とした身の上を語り始めた。
 母と中学一年生の弟は神奈川県横須賀市におり、母は失業中で生活保護を受給している。二人とも帰伯を望んでいるものの、当地には家も仕事もないために、帰るに帰れない状況にある。
 両親は6歳のときに離婚した。非日系人だという父のことは「あまり覚えていない」といい、さらに詳しく尋ねようとすると、「日本で何か悪いことをしたみたい。お父さんのことを聞こうとするとお母さんがいつも怒るから。・・・わたし何も知らないんです」。そう言って、うつむいた。
 離婚後、母は派遣社員として日本の勤め先を転々とした。彼女はその都度、あちこちの小学校に転校した。同級生には「ブラジル人、気持ち悪い。自分の国に帰れ!」などの暴言を浴びせられ、嫌な思いを重ねた。いじめられる状況が5年も続き、「ずっとブラジルに帰りたかったんです」。当時のことを思い出すだけで苦痛に表情をゆがめた。
 日本では家庭でポ語を話すことはなく、日本語で育った。「親は仕事ばかりで時間がなくて、会話すらもなかった」。Aさんは弟の世話をしたり、夕食を作ったり家事を手伝う日々だった。
 苦労を重ねる母の姿を見るに見かねて「高校には行きたくない。働いて家計を支えたい」と申し出たが、母は「そこまでしなくてもいい」と言って、彼女を一人で帰伯させた。それが10年の11月だ。
 現在Aさんはベロ・オリゾンテ市内に母方の祖父母らと住む。市内の学校に通い、懸命に勉強に励んでいる。一年間、個人授業を受けるなどして必死に努力し、今年から高校に通うことが決まった。「無理だと思っていたから、本当に良かったーと思って」と満面の笑みを浮かべた。
 Aさんは日本育ち、いわば準二世のような存在であり、日本から家族を呼び寄せるほどの足場を当地で築くのは簡単なことではないだろう。
 通訳中、単語の意味を逆に記者に尋ねる場面もあった。「まだ苦労しています。ポ語って難しいですよね」と苦笑いする。彼女は「自分にお金がかかっているのが気になる」と繰り返した。自分を置いてくれる祖父母にかかる負担が気になっている様子だ。
 「少なくとも高校を卒業するまでは勉強に集中しなきゃ」と自らに言い聞かせるようにつぶやいた。念願の帰伯を果たした彼女だが、日本でも小学校程度の学歴しかなく、ポ語もまだ不自由だ。一歩間違えれば、日語もポ語も中途半端というセミリンガルの罠に落ちてもおかしくない。高学歴社会化しつつある当地で足場を築くには、相当の苦労が強いられるはずだ。
 家族の先陣を切って帰伯したAさんが家族を日本に迎えに行き、一家を支えるほどの力が備わる日はいつのことだろう。むしろ、当地で苦労したあげく、再び母と弟のいる日本に戻ることもありうるのではないか。
 彼女のような日本育ちの世代にとって、ブラジルはけっして懐かしいだけの場所ではない。日本で慣れ親しんだ常識や言葉が通じない未知の〃祖国〃なのだ。(つづく、田中詩穂記者)

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