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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(3)=バストスに養鶏もたらす

パルマ協同農場に残る独特の建築群

 祖国での宗教迫害から逃れ、〃預言〃を信じてバチスタ信徒ら2300人が大西洋を渡り、22年11月に同植民地を創設した。そんな経緯から当初より永住を目指していた。開拓当初、信徒らは財産を自治組織に委ねて2100アルケールの土地を協同購入した。協働で開墾作業を進め、後から土地割りをし、改めて個人所有にしていった。
 第一次大戦や内戦から命からがら逃げ出して祖国の土地財産を売ることが出来なかった人たち、戦災孤児や未亡人、若者が多いという移民の実態がこのような独特の殖民形態をとらせた。皮肉なことに、彼らは共産主義を嫌って移住したにも関わらず、ブラジル人からは〃共産村〃と誤解されがちだった。
 25年に州農務長官が同地を視察し、植民者がブラジル人とまったく接触がないことを憂い、孤立した〃共産村〃を作ることを怖れ、周辺にブラジル人を含めた外国移民の入植を奨励し、イタリア人やポルトガル人集団地、28年のバストス移住地建設へとつながっていった。
 30年代の最盛期にはほぼラトビア移民ばかり2200人以上が自治生活をしていた。「最初の10年は独自の通貨まで流通していた。ブラジル人官憲が警告してようやく使用を辞めた」と指摘するポ語論文もある。
 開拓生活の難事である医療面でも、リトアニア人の女医マルド・アンデルソンが29年には入植し、村人の面倒を良く見た。マラリア、森林梅毒、怪我、毒蛇に咬まれるなどは日常だった。植民者全員が協力して12床の病院を建てたが、治療費を払える人は少なく「収穫物や鶏をさげてきたり、あるものは労力の提供を申し出た」(阿部記事)という状態だった。遠くはマットグロッソ州、近くはバストスの日本移民も来た。初期移民の苦労は民族を超えてとてもよく似ている。
 最初から永住を目指したため、どの小農家にも牛、豚、鶏が飼われ、自家菜園があるなど自給自足していた。「国民性からどの家も綺麗に飾り、庭には花壇があり、きれいな花が咲き乱れていた」(右同)。第2次大戦頃には後発のバストス移住地にお株を奪われるが、ヴァルパでは28年にはもう養蚕組合が組織されていた。
 サンパウロ州の45%を生産する〃鶏卵王国〃バストスで養鶏の祖といえば、35年頃に始めた渡部喜助だ。『バストス日系移民八十年史』(2010年)には次のような興味深い記述がある。
 その渡部本人の証言として「息子が時々レトニア(ヴァルパ)を視察に行ったのが因です。彼処のやり方は、ご存知の通り牛、豚、鶏、蜜蜂等の家畜を主体にした経営で、実にのんびりしたもの。棉作のようにやれ地力の消耗だ、表土の流出だと騒がんでもいい。結局あれでなければ駄目だと息子が言うのです。成程それが良かろうと一家の総意が決まり、棉作からだんだん家畜の方へと転向してまいりました」(132頁)と記載されている。
 さらに「渡部家の養鶏は長男パウロがヴァルパより数羽の白レグ(註=白色レグホン)の種鶏と孵化器を譲り受けてきたのがその始まりらしい(中略)何時頃、どこで鑑別を覚えて来たかはっきりしないが、ヴァルパより種鶏を譲り受けたときついでに覚えてきたらしいという」(右同)とある。
 つまり、バストス養鶏の最初をたどれば、ヴァルパの有畜多角農業経営にたどり着く訳だ。彼らは永住志向の植民地に相応しい農業ノウハウを最初から持っていた。数年間のデカセギ志向が多かった戦前の日本移民にとって、多くの貴重な知識を伝えてくれた。
 ラトビア子孫すらも〃閉鎖的な共同体〃だったと自嘲するが、日本移民にとっては惜しげもなく生活の知恵を教えてくれる良き先輩だった。(つづく、深沢正雪記者)

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