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ブラジル文学に登場する日系人像を探る=ギリェルメ・デ・アルメイダのコンデ街=O Bazar das Bonecas=中田みちよ=第4回

ニッケイ新聞 2012年9月1日付け

 当時、コンデ街にどんな店があったかというと、まんじゅう屋、とうふ屋、やど屋、せんたく屋、おもちゃ屋、くだもの屋、かまぼこ屋、とこ屋など。1929年といえば、まだ笠戸丸移民が渡って20年ほど。ここでいう「家庭的な下宿」は、仕事を探してサンパウロ市にやってきた田舎の人たちでしょうから、三食付で木賃宿の体をしていたはずです。そのうち住み込みの下働きの仕事を見つけて散っていきます。
 日本人最初の歯医者は笠戸丸移民の金城山戸ということになっているんですが、彼はブラジル人の歯医者のもとに住み込んで技術を会得し、開業したのはクリストボン・コロンボ街ですから、このギリェルメが見た歯医者の看板はもぐりだったんでしょうか・・・。ブラジルについたとたん、中卒が大卒に変身するのは移民社会ではめずらしいことでもありませんし・・・。
 子どもたちも登場しています。26年ごろサンゴーサロ教会で日本人児童16名が洗礼をうけました。翌27年にはさらに142名、29年にはさらに50名がギード・デル・トーロ神父の努力で受洗。この子どもたちにポルトガル語と日本語で公教要理を教えたのが池上トミ(渡辺マルガリーダ=鹿児島出身・1912年家族とブラジルに渡る。後に日本移民の貧窮者・病弱者の福祉、老人福祉に従事した。「憩いの園」創立者のひとり)です。
 11歳だったトミはフランス系ブラジル人医師宅に家庭奉公に上がり、ここで月給20ミル。料理を学び、洗濯の仕方、アイロンのかけ方などを習い覚えました。その傍ら家長から辛抱強くポルトガル語の手ほどきを受けました。そして、当時、教会に通うことなど夢想だにしなかった日本人として初めてサンゴンサロ教会に足を運ぶようになりました。これは彼女の意志というより、代理母だったセバスチアナ夫人が教会の世話役をしていたためです。さらに、18歳になったとき、コンデ街の下方に在ったボア・モルテ教会で洗礼を受け、マルガリーダになりました。
 ・・・ああ、そうか、ギリェルメとトミはサンパウロの同時代を生きていたんだ。「コスモポリス」がにわかに身近なものになりました。もっとも、ギリエルメはハイソサイテー、トミは移民ですが。
 この池上トミ、カトリックとは浅からぬ縁があるように思います。
 まず、トミたちが乗った第3回移民船神奈川丸に「隠れキリシタン」の一行20数家族が乗船していたこと。出身は福岡県三井郡太刀洗村今出、その後もこの村からの移住は第一次大戦まで続き、100家族以上がコーヒー農場に契約移民として入っています。
 日本でキリシタン禁制から「隠れ」になることを余儀なくされた信者たちは、国教カトリック信者として大手をふって歩けるようになり、迫害に終止符が打たれました。大農場というのは、耕地内にカペラとよばれる御堂を有していますから、あるとき、アジア系の人間が教会に現れてぬかずき真摯に十字を切る・・・その姿に土地の司祭は狂喜したといいます。しかも、彼らはカトリック信者証明書を持っていたのです。日本で迫害されていた彼らはここで、耕地支配人から助力と便宜を与えられました。
 後に独立し、プロミッソン近在にコミュニテイーを持ちました。1933年の調査によると総計124家族、759名(うちブラジル生まれ308名)という数字があり、平田、青木姓が多いとされています。
 さて、このサンゴンサロ教会で4、5年前に私は洗礼を受けたんですが、そのとき、教理の指導をしてくれたのが平田和子さん。先の平田一族の血を引く人間で、私とはコチア組合で同期でした。
 「古い人たちから日本で迫害された話も聞きましたが、カトリック国のブラジルでは隠れる必要もなく、晴れやかな気持ちで教会にいけた。私たちの先祖には、ブラジルが約束の地だったのです」
 隠れキリシタンの陰惨なイメージはきれいに払拭されているような曇りのない表情で言われました。(つづく)

写真=半田知雄『移民の生活の歴史』(188頁)にあるコンデ街の絵地図



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