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ブラジル文学に登場する日系人像を探る2=ゼリア・ガタイの優しい視線=『Casa do Rio Vermelho』の「ぶらじる丸」=中田みちよ=第1回

ニッケイ新聞 2012年10月4日付け

 ジョルジ・アマードについて最近調べなおしたことがありました。そのときに、アマードを語るなら伴侶であるゼリア・ガタイ(Zelia Gattai、1916—2008)も知らなきゃと、はじめてゼリアの本を読みました。まあ、彼女は日本風にいうなら随筆家です。それから写真家。
 何年か前に買った『Casa do Rio Vermelho』(リオ・ベルメーリョの家、レコルデ出版社、初版1999年、9版2002年)が本棚にあったのでそれからめくりました。夫婦が晩年をすごした樹冠の大きなマンゴーの樹があるサルバドール(バイア州)のリオ・ベルメーリョのほとりにある家(その下でジョルジが眠っている)のことで、日常雑感的な随筆集。
 思ったとおり、別にゼリアのオーラが感じられる本ではなかったのですが、ただ、ものをみる眼差しが大変やさしいことに気づきました。それが9回も版を重ねる原因になっているはずです。
 その本に「Brasil Maru」という言葉を見つけたときは、小躍りしました。「Maru」というのは日本船に常套的につけられる名称ではありませんか。移民を輸送した移民船にちがいない。なぜ、ゼリアの随筆集に移民船がでてくるのだろう・・・。
 その『リオ・ベルメーリョの家』には何度ひっくり返してみても、随筆の年月日が登場しないのです。じゃあ「ぶらじる丸」から当たるしかない、ということでウィキペデイアで検索することにしました。
 「ぶらじる丸」は、日本の貨客船の歴史上3隻が存在していることが分かりました。最初は「ぶら志る丸」という大阪商船の船で竣工が1939年。移民輸送で南米航路に就航しましたが、第二次大戦のためわずか三航海で大連航路に配属され、1942年にアメリカ潜水艦の雷撃を受けて沈没しています。ブラジルでは48年から共産党の弾圧がはじまってまもなくゼリアたちはパリへ政治亡命をしているので、夫妻の「ぶら志る丸」乗船はありえないことになります。
 次の「ぶらじる丸」は1954年に竣工。65年から移住航路につき71年には移民船としての使命は終了。現在は中国広東州で「海上パビリオン」となっているそうです。最後の「Brasil Maru」は鉄鉱石運搬船ですから、これは問題外。
 計算してみると、ゼリアたちは52年に亡命先からブラジルに帰国し、彼女は63歳から筆を取るようになりますが、1979年に処女作『Anarquistas Gracas a Deus』(おかげさまで、アナーキスト)を上梓しました。「ぶらじる丸」は65年から71年にかけて移民船として活動しているので、彼女たちが乗った「ぶらじる丸」はこの6年間の航海のいずれかにあたります。
 もっとも随筆が書かれたのは20年後ですけれどね。考えてみれば、一応、戦後の勝ち負け争いが落ち着き、ボツボツ日本へかえる成功者が出た時代です。66年当時の「パウリスタ新聞」が「お墓参り帰国が急増」(『ブラジル移民・日系社会史年表』)を報じていることからも日系社会の経済力が高くなったことが分かるのですが、その里帰りの移民たちがゼリアの眼に留まっていたことになります。
 「サントスで私たちをロサンジェルスまで運ぶ日本の船「ぶらじる丸」に乗船した。小さくてシンパチコ(感じがいい)である。船の一等客室はわずか3室だけで、うち二つはすでにアルゼンチンからの乗客が陣取っていた。甲板の下方には小さなプールがあり、さらにその下方は2等船室になっていて、長年の苦労の末〃錦衣帰国〃をする日本人でいっぱいだった。サンパウロ生まれの子どもたちを引き連れて、私たちと同じにサントスから乗船したのだ」
 ああ、私はわくわくしました。探していたのはこれだ、これだ。
 「船旅は気晴らしというものが少ない。生花コンクール、小さな賞品がでるルーレット、茶道のセレモニー。午後になるとゆかいに話す相手もいない。アルゼンチンからの乗客は私たちとは話が合わない」
 この随筆が書かれたのは70年頃ですから、当時すでにブラジル社会では生け花や茶道が認識されていたことになります。実際68年3月には草月流生け花ブラジル支部が発足していますから、実践的な活動はかなり以前から行われ、ブラジル人の間にも浸透していたと思われます。
 いや、それより何より、65年のビソーザ農大の家政学部で、私自身が生け花の講義をブラジル人教授からうけていますから、「アルテ・デ・アランジョ・デ・フロール」はかなり以前から根を下ろしているはずです。アルゼンチン人と話があわないのは、これは隣同士なのにいつもはりあう宿敵関係ですからね。まあ、理解できます。(つづく)

写真=生前のゼリア・ガタイ(Divulgacao)

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