ホーム | 連載 | 2013年 | 《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談 | 《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第9回=妻に一文の貯えも残さず=アインがボアッテで女給?

《戦後移民60周年》=聖南開拓に殉じた元代議士 山崎釼二=『南十字星は偽らず』後日談=第9回=妻に一文の貯えも残さず=アインがボアッテで女給?

ニッケイ新聞 2013年2月12日

ペルイべの開拓本部で(坂尾撮影・所蔵)

ペルイべの開拓本部で(坂尾撮影・所蔵)

 裸一貫の密航者から始めて、ボルネオでは異民族から名知事と親しまれるまでになった人物が、なぜブラジルでは火を消したように知られることもなく志半ばで亡くなってしまったのか——。
 構成家族として山崎と共にアマゾンに入った海野守(81、清水)=サンパウロ市在住=は「山崎さんは社会党だし、県知事までやった人だから、どんな人であっても相手を尊重する人、相手を大切にする人だった」と人物像を要約する。
 海野の父・仁は静岡県の清水市議を長年務めた関係で、政治家として山崎と面識があり、構成家族の話をまとめてくれたと言う。
 「私は構成家族といってもアマゾンに着いてすぐ別行動になったので、その後のことは良く知らない」と前置きしつつも、最も身近な家族の位置から見ていただけに、賛辞だけでは終わらない。
 「相手を尊重する——ことを逆にいえば、ここでいうカボクロ労働者の生活まで良くしようとか最初から考えてしまう人だった。だから、昔からこっちで農業をやっている人とは考え方が合わなかった」と付け加えた。
 だとすれば最初に入ったアマゾンで、のちに名経営者となる山田義雄と話が合わず、すぐに出てしまったのも合点が行く。「こういってはなんだが、あまりに労働者をちゃんと扱うとこちらでは成功できない、彼らから逆利用されてしまう部分がある。山崎さんはいつもこちらの現実と、自分の理想とする考え方の差に苦労されていた。山田さんとの行き違いもその辺が原因でしょう」と推測する。
 ボルネオでは現地人アインが彼の理想を現実化する実践的なアドバイスをした。でも当地ではそのような人物と出会えず、ただの理想主義者で終わってしまった…。
   ☆    ☆
 単なる山崎個人の話ならここでお終いだろう。でも、戦後移民としての後日談は、当地に残った妻子を扱う今後の部分が重要かもしれない。
 彼の死の直後にアインを取材した『曠野の星』51号(58年12月号)に、記者は《山崎は一文の貯えも残していなかったので、子供を抱えたアインの今後の生きてゆく道は多難ないばらの道であろう》と書いた。
 事実、アインは家賃が払えずサンジョアキン街のアパートを解約し、もっと賃料の安いオスカル・シントラ・ゴルジーニョ街へ移った。パ紙があった通りだ。宮尾もその近くに住んでいた関係で、娘の朱実が「手紙を読んで」とよく呼びにきたという。日本語が読めないアインは元下宿人を呼んでは日本からの手紙を読んでもらった。
 アインのことで特に印象深かった当時の逸話を、宮尾に尋ねると「呼ばれていくと、アインさんはまだ寝室のカーマに横になったままで、すごく妖艶な雰囲気があった」ことと言い、視線を一瞬中空にさ迷わせた。
 宮尾によれば「アインさんはサンパウロ市レプブリカ区サンジョアン大通りのボアッテというか飲み屋でホステスをしていた時期があり、けっこう売れっ子だった。コチア産組のパラナから来た監査役に、『君は彼女と親しいんだろ』と無理やりに紹介を頼まれたこともある」と笑った。「駐在員とかが彼女を狙っていたと聞いている。たしか山崎さんが死んでから4、5年はこっちにいた」。いくら美貌を誇るとはいえアインがボアッテ勤めとは…。
 当時のサンジョアン大通りで、日本人が通う店はそう多くない、位置関係からすれば「プリンス」のようだ。真相を尋ねるべく、その同店の関係者を探した。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

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