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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第67回

ニッケイ新聞 2013年5月4日

 数時間すると多少いたんだものも出てくる。そうするとフェイランテは少し値を下げる。その頃を見計らって買い物に来る客もいる。最後まで売れ残ったものはそのまま道路に廃棄処分され、路上生活者やファベイラと呼ばれる貧民街で暮らす人たちが持って行く。
 フェイランテの言葉に叫子は「安くしてくれないなら他のところに行ってみるわ」と素っ気ない返事をした。
「セニョール(旦那)、しっかりしたいいセニョーラを見つけたもんだね。わかったよ、まけるから必要なものはうちで全部買ってくれよ」
「タ・ボン」小宮が答えた。「冷蔵庫がからっぽだから、一緒に買い物に付き合ってよ」
「私に任せて」
 叫子はそこでトマト、レタス、イチゴ、オレンジを買った。フェイランテはかなりまけてくれた。
「あんたたち夫婦が今日、最初の客だ。これで神のご加護があるだろう」
「そうよ、大丈夫よ。ドーノ(ご主人)は大もうけよ」
 あっという間に買い物籠はいっぱいになってしまった。小宮は両手でその買い物籠を抱えて、叫子の後をついて歩いた。
「次はパダリア(パン屋)に行きましょう。いいところ知っているのよ」
 サンパウロ市内にはいたるところに二十四時間営業のバールがあり、中にはパダリアを兼ねているところもある。ポルトガル系の経営者の店は焼きたてのパンを四時頃から店頭に並べる。その店にはいると、入れたばかりのコーヒーの香りと焼きたてのパンの香ばしいにおいが店内に満ちていた。
「ボンジア(おはようう)、キョウコ」
「ボンジア」
 叫子はこの店の常連客らしい。
「キョウコ、いつ結婚したんだ」
 愛想のいいパン焼き職人がウィンドウケースにパンを並べながら彼女に聞いた。職人は店の前で買い物籠を抱えている小宮の方に視線をやった。彼女は笑っているだけで、職人には何も答えずパンを二つとレイチ(ミルク)を買った。
「小宮さん、私、ここで失礼するわ」
「おい、それはないだろう。朝食くらいご馳走しろよ」
「でも私ペンソン(下宿)暮らしなのよ」
 東洋人街の周辺には日本人経営のペンソンが何十軒とあった。叫子もそこで生活していたのだ。
「じゃあ、俺のアパートに来て作ってくれよ。俺の家もここから近いんだ」
 二人はそのままアクリマソンの小宮のアパートに向かった。アパートの入り口にはゼラドール(管理人)がいて、小宮が来たことを知ると門扉を開いた。
「セニョール・コミヤ、恋人をみつけのかい」
「まあね」小宮は笑いながら答えた。
 アパートの一階はサロン・デ・フェスタ(パーティー用の部屋)二室で、二階から上が居住用スペースになっている。敷地にはプールと子供が遊べる小さな公園が設けられ、サンパウロでは一般的なアパートだ。
「けっこういい所に住んでいるのね」
「会社が用意してくれたアパートなんだ」
 小宮の部屋は十二階だ。ドアを開けて中に入ると、右側に寝室二つが並び、左側にはバス、トイレ、コジーニャ(台所)が並び、一番奥まったところが広いサーラ(リビング)になっていたる。
 台所に買い物籠を置くと、小宮はリビングに叫子を通した。二十畳ほどの部屋にはソファとテレビ、テーブルがあるだけだった。小宮はカーテンを開けた。朝の光が差し込んでくる。窓の向こうにはアクリマソン公園が見えた。
「きれいな眺めね」叫子が呟くように言った。「さて、朝食でも作りましょう」
「うん、頼むよ。朝食はいつもコーヒーとパンだけなんだ。食器や鍋、釜、フライパン類は一応そろっているから適当に使っていいよ」


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