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森和弘の秘められた過去=勝ち負け抗争と二世心理=(3)=血塗られた魔の7月=今も言葉にならない想い

ニッケイ新聞 2013年5月30日

 和弘の悪い予感は、その通りになった。46年7月13日付けジアリオ・デ・サンパウロ紙によれば、父ゴイチがビラッキで経営していたバールは、当時ブラジル人客でいっぱいだった。
 そこへ日本人の二人組がきて、バルコンの奥にいたゴイチにまず発砲した。その発砲音に驚いて、裏にいたマルイが出てきたところをやはり撃ち殺されたと書かれている。二人組はそれぞれに拳銃を持ち、5発以上を発砲した。
 マルイはゴイチの兄で、近くで理髪店を経営していた。和弘は「ゴイチを狙ってきたらしいが、一緒にいたマルイまで巻き添えを食ったようだ」と残念そうにいう。事情を聞くと、和弘はマルイを実父として1930年2月に生まれ、弟のゴイチに預けられた。つまり弟が養父だ。その二人が一度に殺された——。
 『在伯移植民二五周年記念鑑』(1934年、サンパウロ州新報、370頁)のビリグイ管轄の項を見ると「森丸伊」とあるので、これは実父の方だ。家族5人、高知県出身、大正15(1926)年渡伯。同様に377頁を見ると「森五一」もあった。家族5人、高知県出身で、やはり大正15年渡伯とあるから、同じ船で来たのだろう。当時は二人とも「珈琲請負」だったが、その後に商才を発揮し町中に店を構えた。
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 和弘がタクシーで駆け付けると「もう遺体は寝室に移され、キレイになっていた」という。「その時どう思ったか?」と恐る恐る尋ねると、少し間を置き、「何といっていいか分からない。今でも言葉にならない」とだけ答えた。
 和弘は懸命に記憶の糸をたぐる。「五一はお客さんや友人から問われるままに、正直に日本は負けたと答えていた。祖国は滅茶苦茶にやられたから、日本に帰る切符とか、南洋の土地売りとかに乗ってはいけない。お金を失うだけだと答えていた。だからといって、それを広めようとか認識運動に参加していたわけじゃない」。
 46年7月14日付けジョルナル・デ・サンパウロ紙は10、11、12日の三日間にビラッキ、コロアードス、ブラウナと直線距離にしてわずか20キロ圏内の狭い地域で、立て続けに襲撃事件が起き、3人が死亡、5人が負傷したと報じた。
 これだけ短期間に狭い地域で起きたという意味で、勝ち負け抗争の中でも最も血塗られた時期だった。なぜこんなに激化したのか。
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 事件の約10日前、46年6月29日付けジアリオ・ダ・ノイチ紙は大見出しで「サンパウロ警察で過去最も厚いプロセッソ(審議)が終了」とあり、800人が検挙されて事情聴取され、各300頁の調書11巻が作成され、うち「80人を国外追放処分にすべし」としていた。
 勝ち負け抗争は当時の官憲にとっても、未曾有の事態、大事件だった。もっともこの後、調書はさらに分厚いものになった。
 「80人を国外追放へ」というDOPSの方針に反発するかのように7月に傷害殺人事件が激増した。『移民八十年史』(171頁)の表によれば、襲撃傷害事件は勝ち負け抗争全体で86件だが、うち64件(74%)が7月に発生している。殺人事件被害者数に至っては全23人のうち11人、半数近くが7月に集中した。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)

写真=地図入りで事件を大々的に伝える伯字紙(ジョルナル・デ・サンパウロ46年7月13日付け)



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