ホーム | 文芸 | 連載小説 | 移り住みし者たち=麻野 涼 | 連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第143回  

連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第143回  

 

ニッケイ新聞 2013年8月22日

 

 歓声と会話でざわついていたバールだが、フェスタをしているテーブルだけが静まりかえった。
「日本では私のような黒い肌をしたミスチッサは差別され、それどころか結婚もできません。日本で暮らしていても将来に希望を持てないと思い、ブラジルに移住してきました。サンパウロでマリードに出会い、結婚することができました。ブラジルに来て私も本当によかったと思っています。愛する男性に出会うことができました。これからもよろしくお願いします」
 静まり返っていたバールに一斉に拍手が沸き起こった。
 見習い整備士やその恋人が席を立ち、叫子のところにやってきて、抱き合いキスをし、改めて結婚を祝してくれた。
「叫子、一人だなんて思わないで。私たちがいるから」
「ここはブラジル、黒い肌のミスチッサなんてたくさんいる。日本で辛い思いをした分、ブラジルで幸福になってね」
 そんな言葉を次々にかけていた。
 テーブルの上の飲み物や料理はあっという間になくなっていた。会費が安かったのだろう。それに気づいた竹沢がパウロを呼んだ。
「料理はこれだけか」
「うん」
「それならこれからオーダーする分は私が支払うから、店の方に注文してくれ」
「オッチモ(最高だよ)」
 と言うと同時に、パウロが大声を張り上げた。
「皆、竹沢所長からのプレゼントだ。足りなくなったら、飲み物と料理はそれぞれ店の方に注文してくれ」
 ショーウィンドウに置かれていたコッシーニャやパステルがあっという間になくなってしまった。
 彼らは飲み食い、そして二人に話しかけてきた。それも何十年来の友人のように親しそうに話しかけてきた。
 豪華な結婚式ではなかったが、小宮にとっても叫子にとっても、心に深く刻まれた結婚式になった。

 それから八ヶ月後。十日前から小宮のアパートにパウロの母親マリアも泊まり込むようになっていた。叫子は臨月を迎え、いつ出産してもおかしくない状態だった。炊事、洗濯すべてをマリアにまかせっきりになっていた。叫子はアクリマソンのアパートから車で十数分の距離の所にあるポルトガル総合病院で定期検査を受け、出産もその病院でするように決まっていた。
 朝、小宮とパウロが出勤していくのはいつもと変わりはないが、小宮はマリアにすべてを頼んでから家を出た。
「心配ないよ。私は五人の子供を産んでいるんだから。いざという時はタクシーを呼んで入院させる」
 会社を休むという小宮に、叫子も出社するように言った。マリアが叫子の母親代わりだった。
 工場で働いていても叫子のことが気になり、仕事に集中できない。それはパウロも同じで、一、二時間おきに連絡がないかを聞いてくる。入院施設もしっかりしているとサンパウロでは評判の病院だが、ブラジル人が出産をそれほど大変なことと思っていないのか、出産直前に入院し、二、三日後には退院するという。
 その日の朝もいつも通りに出勤した。昼休みに入る直前だった。マリアから小宮に電話が入った。
「これから入院するから、直接病院に来て」
 こう言ってマリアは電話を切ってしまった。事情はすべて竹沢に話してあるので、「会社の方はいいから、すぐに行ってあげなさい」と言ってくれた。
 小宮はポルトガル総合病院に向かった。着いたのはほとんど同時だったらしく、叫子は一階待合室の長椅子に座っていた。マリアが受付で入院手続きをしていた。
「ちょうどよかった。ここにサインをして」マリアが言った。
 小宮がサインをするとすべての入院手続きが終わり、看護師が車椅子を運んできてくれた。それに乗ると、三階の入院室に連れて行かれた。(つづく)


著者への意見、感想はこちら(takamada@mbd.nifty.com)まで。

 

image_print