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ざっくばらんに行こう!=ニッケイ新聞合併15周年記念座談会=(5)=ボロボロとヘトヘトが力合わせ

ニッケイ新聞 2013年9月4日

若松孝司さん(パウリスタ新聞元2面記者)

若松孝司さん(パウリスタ新聞元2面記者)

■若松孝司(わかまつ・たかし)=1931年2月生まれ。茨城県常陸太田市出身。東京外語大ポ語学科卒、1954年にぶらじる丸の処女航海で渡伯。パ紙で翻訳面を主に担当した後、在聖総領事館勤務しながらマッキンゼー大学経営学部を卒業してソールナッセンテ証券を設立、従業員200人を数えるまでに育てたが1998年、景気変動を受けて清算。書道家「若松如空」としても知られる。


吉田=パラナの方とかに行ってね、金を集めて一括して購読料もらって、あとをただで。それが何千部もあったという話。
深沢=えっ、何千部も…ボロボロの経営じゃないですか。
吉田=
そう。だから、フタを開けてみたら、やっぱりパウリスタの方がね、実質の購読者はずっと多かったというね。
深沢=ほ〜っ、そんな裏交渉があったんですね。
吉田=
それに対して日毎は魅力を感じていたんだろう。でもパウリスタはパウリスタで借金が嵩んでいてね、ヘトヘトになっていた。だから、結局は「対等合併」ですんなりまとまったような。後で聞いたんだけどね。
深沢=田村さんはそのとき『経済報知』ですよね。『経済報知』の立場から、合併劇っていうのはどういう風に見ていました?
田村=
いやあ、全然。
吉田=あの時は、田村さんからあんまり〃愛の鞭〃を打たれた覚えはないな。
深沢=オスカル・シントラ・ゴルジンニョ街のパウリスタ新聞社屋は借金のカタに取られ、編集部は日毎ビルに来た。吉田さんがニッケイ新聞編集長になり、パウリスタ勢が社会面の7面を1頁造り、神田大民日毎編集長が社会部長となって6面にもう1頁作った。それぞれのカラーを残して、合併したという感じでしょうか。合併後は10年以上も日系社会面が2頁ある時代になったわけですね。
  ☆    ☆
深沢=かつての新聞に比べると、今はこういう点がもの足りないとか、もっとこうした方が良いという提案をお伺いできればと思うのですが。若松さんどうですか。
若松=
私どもがやっていた時と比べるとね、今の新聞は…、非常に良いですよ。
深沢=ほっ、本当に良いですか。
若松=
非常に。
田村=本当?
若松=自分がやっていた仕事から比べたらね、今やっている仕事の方がうんと良いと思いますよ。
深沢=具体的にはどういったところが? 2面とか?
若松=
例えば2面もそうだし、最近経済問題も、しばらくなかったものがね、出てくるようになったし。それから横割り(連載記事)とか、あるいは解説のような記事とか。あるいはあんたの記事もそうだけど、ああいう類の記事が多いでしょ? サンパウロと比べたらニュースの豊富さっていうか、内容が段違いですよ。サンパウロは確かに経営的にはどうか知らんけど、こちらの方は人間も多いしね。経営も大変だと思うけど、その中でこれだけの新聞を作っているっていうのは、僕はもう感心しているんですよね、実は。
深沢=そうですか、ありがとうございます。
若松=
僕は早く言えば、早々に逃げ出した方だから。
一同=はっはっは。
若松=パウリスタで働いたのは5年だけなんだからね。その時もね、女房もらって子供ができて、生まれたらどうしようもならんからって逃げだして、領事館行ったわけですよ。で、領事館行ったら給料が3倍になったわけよ。
一同=ほー。
若松=そういう時代を考えてみるとね、内容的に言ったら今の方がずっと良い。まあ広告も少ないしね。
深沢=でも不思議なことに、編集部に長く残った人には、子供がいない人が多いんですよね。やっぱり、子供が出来て真面目に将来のことを考え始めると「邦字紙じゃ頼りない」って、みなさん辞めて行かれたんだろうなと思います。(つづく)

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