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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(76)  

 

ニッケイ新聞 2013年9月12日

 

 地方で起きた認識派に対する襲撃は、実行者が地元の人間ではないケースが多い。これは、実行者が、狙った相手が住む土地の誰かと、直接もしくは間接に連絡があり、情報を入手していたことを、我々に推定させる。
 自然、そういう連絡・情報網が存在したのではないか……と、推定は膨らむ。その情報網として、サンパウロ州を主に63カ所に支部があった臣道連盟の組織が、脳裏に浮かぶ。 しかし、これも裏づけは見つからない。戦勝派仲間が個人として協力していた可能性の方が強い。

 軍人が指揮したとは、到底思えぬ素人臭さ

 臣道連盟が襲撃を指揮した、と疑われるのは、その中枢に軍人が居たことにもよる。 が、サンパウロで起きた事件は、すでに記した様に、実行者自身が臣連との関係を明確に否定している。
 地方で起きた事件の場合、その時期、軍人の役員、吉川順治理事長(退役陸軍中佐)と渡真利成一総務理事(同軍曹)は長期的に拘置されており、指揮などできる条件下にはなかった。 ビリグイの西方、ヴァルパライーゾという所に救仁郷十憲という連盟員が居た。退役陸軍大尉で剣道五段であった。
 ノロエステ線地方の臣連では、かなり重要な存在であった。もし事件を臣連が指揮したとすれば、少なくとも同地方のそれに、何らかの関わりを持った筈である。 この大尉の息子さんが、現名誉下院議員、救仁郷靖憲である。その靖憲によると、十憲は当時、四十数人の青年に木銃を持たせ、毎朝、訓練をしていた。
 事件が起きた時期、靖憲はロンドリーナの医科大学に在学中であったため「何も知らないが、父も、父の所へ出入りしていた人も、誰一人逮捕されていない。だから、事件とは関係なかったと思う」と言う。 臣連には、ほかにも軍人が居ったが、その殆どは、連続襲撃事件の発生以前に、在郷軍人会を組織して、分離している。 かくの如くで、事件を臣連の軍人たちが指揮した痕跡はない。
 それと、仮に軍人が指揮していた──とすれば、襲撃は、もっとプロフェッショナルな行動になった筈である。が、サンパウロで起きた事件同様、地方でのそれも、まことに素人臭い。 なかんずく気になるのが、自分たちの行動の動機と目的を、世に訴える決起趣意書を出していないことである。これでは、単なる人殺しになってしまう。
 軍人が指揮したら、こういう疎漏なことはしなかったであろう。 臣連本部の職員だった佐藤正信は、筆者に、 「臣道連盟がやっていたら、とてもアンナものでは済まなかったでしょうヨ」 と事件との関係を一蹴したが、説得力のある言葉であった。
 やはり臣連本部に、朝川甚三郎という職員が居って、晩年、援協のサントス厚生ホームに身を寄せていた。その朝川を、サントスの文協の会長を務めていた上新(かみ あらた)が訪ねたことがある。上は昔、バストスに居って、属していた居住区の団体が臣連に属していた。 上は、語る。
「私は、朝川に訊いた。テロは臣道連盟がやったのか、と。朝川は、首をこう(横に)振って『関係ない』と……」 右の佐藤、朝川の話はサンパウロで起きた事件も含めての断定である。
 以下も同じであるが、何よりも、臣連には襲撃事件を起す動機がなかった。当時、臣連は大東亜共栄圏への再移住を事業目的にし、当面は、それに備えて子弟教育に取り組もうとしていた。そのために公認団体としての登録の実現に懸命になっていた。認識運動が目障りであったとしても、事件発生時、認識派の数は未だ少なく、襲撃せねばならぬほど逼迫した状況ではなかった。むしろ、事件を起し、警察沙汰になれば、臣連本来の事業が潰える危険があった。
 以上の様な具合で、地方で起きた認識派への襲撃事件も、臣連との関係を裏付けてくれそうな材料は、こちらが追及して行くと、次次と、向うから消えてしまった。 やはり、戦勝派の過激分子が、それぞれ小グループを作って、独自に行動した──と観るべきであろう。(つづく)



 

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