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ハイカラさん海を渡る=移民画家 大竹富江の一世紀=(2)=運命の分岐点は結婚出産=大事なのはファミリア

ニッケイ新聞 2013年11月22日

当時の大竹一家

当時の大竹一家

 運命の分岐点はどこにあるか分からない——。富江さんと共に渡伯した5番目の兄は、来伯わずか1年後の1937年、日中戦争が勃発して召集が来て、わざわざ帰国して戦地へ赴き——そこで戦死した。
 令状を受け取らなかったという4番目の兄・益太郎さんは当地にとどまり、聖市リベルダーデ区で製薬会社「ワカモト」を経営していた。益太郎さんを知る人々によると、恰幅のよい豪快な人物だったという。来伯当初はタクシーの運転手をしていたが、ポ語ができないため、客が指示する住所を知りもしないで車を走らせて、「そっちじゃない! こっちだ」など客に言わせて何とかやっていたという笑い話のようなエピソードもある。
 益太郎さんが移住した1934年の日本は、軍国主義が年々強まり、共産主義者どころか自由主義的知識人に至るまで、反政府的な芽が厳しく摘まれていた時代だった。世界恐慌に続く昭和大恐慌、満州事変から五・一五事件、二・二六事件と国を揺るがす出来事が相次ぎ、軍部が大陸進出に向けて胎動を強めた不穏な時期だった。
 「大学卒業しても仕事がなかった兄は、ブラジルはどんなところかと思って移住したみたい」と、富江さんは詳しいことはわからないといった風だった。
 富江さん本人は「覚えていない」というが、次男のリカルドさん(70、二世)によれば、「ブラジルが軍政だったころ、母は軍政反対デモにも参加していた。僕もルイも熱心に活動していたので、一度つかまったこともある」との意外な一面を持つ。京都の伝統や保守的な雰囲気から逃れてきた明治の〃ハイカラさん〃らしい逸話だ。
 富江さんが反軍政デモに参加していたくらいなら、益太郎さんも軍国主義や自由を縛る日本の風潮を嫌っていたことは想像にかたくない。日本にいたら徴兵されていた可能性のある彼もまた、自由を求めてブラジルへやってきたのかもしれなかった。
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 1939年に勃発する欧州大戦に向けて、当地でも戦雲が漂い始めていた。当地にとどまり兄の家で暮らし始めた富江さんは「戦争で絵描きになるどころではない」と一時その夢を横に置いた。
 そして兄の同居人・丑夫さんと出会い、着伯した36年に結婚した。「それが5番目の兄とそっくりでね。ムイント・ボニートでボンジーニョだった」と当時を思い出してにんまり笑う。
 「どっちがアタックしたんですか」と記者が突っ込むと、「そんなこと…」と百歳の〃乙女〃は照れて口をつぐんでしまった。大和撫子の逆を行くような人だから、きっと彼女がアタック(口説いた)したはずだ、と余計な推測をした。
 そんなオテンバ娘も、38年に長男が誕生すると「人生にとってファミリアが大切か、仕事が大切かよく考えて、仕事は第二にしようと決めた」と振り返る。しばらくは妻、母としての道を選ぼう、と。身体に通っているのは、やはり明治女の血だ。
 その頃、大竹一家はイタリア移民の工場労働者家庭が集まるモッカ区の一軒家に住んでいた。今のカンポ・ベロ区に引っ越したのは、ずっと後の62年だった。
  ☆   ☆
 大竹富江インスティチュートの館長、リカルドさんにも当時のことを聞いてみた。彼は忙しそうにバタバタと昼食から帰ってくると、本に埋もれそうな自身の事務室で、「自分自身にも子供に対しても、何でもきちんとするように求める厳しい母だった」と当時を回想した。
 「『日本にはもう帰れない。ブラジル人になりましょう』といって、僕たちには西洋的な教育をした。僕らが通っていた学校も、キリスト教系だった。日本人は一人もいなかったね」。(つづく、児島阿佐美記者)

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