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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (125)=中間層の重責担った親日ブラジル人=地元有力者を育成した海興

ニッケイ新聞 2014年2月14日
日本語で「懸け橋になりたい」と挨拶するアナ・ジュリアさん(四世)

日本語で「懸け橋になりたい」と挨拶するアナ・ジュリアさん(四世)

レジストロ地方入植百周年式典でもう一人顕彰されたのはジョナス・バンクス・レイテ(1907―1978)で、やはりRBBCの初代幹事長だった。カルヴァーリョ市長時代の市議会議長で、後任市長でもある。3期も務め、今もって市長在任の最長記録保持者だ。

1950年前後は票の多くを日系人が握っていた時代であり、戦後初期にカルヴァーリョ、レイテが市長に選ばれたことで、今に続く、戦後の市政の雰囲気が固められた時代だった。

レイテも海興と深い関係があったことが『Os Bastidores』に明らかにされている。同34頁にはレイテ自筆の経歴が掲載され、ジュキアで生まれてサンパウロ市の歯科薬科大学を1927年に卒業し、28年にレジストロ最初の歯科外科医として海興に雇われたとある。

その後28年から35年まで警部補(Sub-Delegado Policia)に、35年から38年に副郡長にも任命されていた。つまり最初に海興で働き始め、それをきっかけに警察、行政の仕事にも手を広げ、戦後はなるべくして市長になった。

1930年代後半、副郡長の要職を最初にレイテが任じ、それを北島弘毅が受け継いだ。シズナンドが書記となり、この3人が戦前、実質的にイグアッペ郡役所と管内で最も税収を挙げていたパス・デ・レジストロ区(レジストロ植民地)との行政的なやり取りをしていた。その要として海興があった。

イグアッペ、レジストロ、セッテ・バーラス入植百周年式典の様子。中津川市慶祝使節団、来賓、地元住民が揃って記念撮影

イグアッペ、レジストロ、セッテ・バーラス入植百周年式典の様子。中津川市慶祝使節団、来賓、地元住民が揃って記念撮影

前掲書には《レジストロを1934年に区にした時も、1944年に市にした時も、1953年にComarcaを設置した時も~(中略)、彼(レイテ)は甚大な努力を払った》(33頁)とある。その中で、戦中の海岸部強制立ち退きの時もレジストロ地方は対象外にされ、枢軸国人集団地であったにも関わらず44年に市制化するという普通ならありえない歴史を刻んできた。

カルヴァーリョもレイテもコロニアと一般社会をつなぐ中間層の役割を担っていた中心的人物とみられる。マルチンスの母同様、日本移民と深い信頼関係があった。

海興は戦前のレジストロ植民地を事実上取り仕切って立派な精米所を建設し、黒瀬泰を派遣してダムを作って水力発電計画まで練ったが、世界大恐慌や関東大震災の煽りで資金が調達できず、紅茶産業が勃興するまで苦しい年月を過ごした。でもその間、中間層となる信頼できるブラジル人を着実に育てていた。

ではなぜ、そんな海興が戦中に清算されたのか。その影響力があれば、コチア産組や南銀のように有力ブラジル人にトップを任せて組織を残すこともできたはずではないか――との疑問も湧く。しかも不思議なことに、清算とほぼ同時期に市として独立した…。戦前に海興がやろうとしていたインフラ整備を、カルヴァーリョやレイテらが先頭にたって50年代に進め、町として本格発展させた。

「肉を切らせて骨を断つ」ではないが、海興を清算することで日本色を消し、戦後すぐにベースボールクラブという別の形で日系団体を復活させることもできた。まるで圧倒的な強権をふるったヴァルガス独裁政権に海興を〃生け贄〃として捧げ、代わりに大事な何かを護ったかのようだ。

☆    ☆

入植百周年式典では、海興の残務整理をした広田英郎のひ孫、レジストロ文協日本語教室で勉強するアナ・ジュリア(四世)が、日本語で「百年経った今、寿司や焼きそばを知らないブラジル人はここに居ません。日本語が話せれば、日本人の考え方が分かるようになる。日本にはブラジル人が見習ったら良いことがたくさんある。私は日本とブラジルの懸け橋になりたい」と挨拶して大きな拍手を受け、未来に続く道を照らした。(つづく、深沢正雪記者)

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