ホーム | 連載 | 2014年 | 島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一 | 島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(14)=「大勢の方に迷惑をかけた」=時と共に理解できたのでは
「トッパン日の丸事件」の当事者7人が前列の若者ら(前列左端が日高さん、1946年1月29日撮影、移民史料館所蔵)
「トッパン日の丸事件」の当事者7人が前列の若者ら(前列左端が日高さん、1946年1月29日撮影、移民史料館所蔵)

島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(14)=「大勢の方に迷惑をかけた」=時と共に理解できたのでは

 事件になんら関係のない、祖国を固く信じたばかりに収監され、虐待され、留守家族も破壊された方もあるのである。
 他に責任を転嫁するつもりはないが、あの時に祖国の敗戦を同胞に知らすべく7名の者が連名で敗戦伝達を、コチア産組を通じて配布したのが逆効果となりあの騒ぎとなったのだと思う。
 ある時、誰だったか忘れたが臣道聯盟のノロエステ線支部の幹部の方が、「せっかく聯盟を公認団体にしようと正式登録の手続きをし、もう少しだったのに、若い者が早まったことをしたから、わしらまでこんな目にあった」といっていたのを聞いた。明らかに我々のことを指していたように思う。
 我々が発端となった戦後の事が余りにも誤って伝わり、汚名を晴らす事もできず亡くなられた方達の気持ちを思ふと、何時も云う事であるが、私情で行動したのではないが、大勢の方に御迷惑をかけたと思っている。
 島での2年7カ月の生活の中、いろんな事があった。皆様は各々家族の待って居られる地におかえりになり、島に残ったのはサンパウロの組8名となった。理由は忘れたが、蒸野太郎と山下博美は既に島には不在であった。
 期日の記憶はないが、最後の方では、中央から日本人を働かせる事を禁ずる司令があって、夜も室にも鍵はかけず、出入りも島内は自由になったのである。一室に50名余りが起居していた広いところに、10名足らずで生活する様になり、妙な気分になったものだ。
 そうなると呑気な様だが、規則に縛られていた生活から急に自由になると、日頃から働きつけている者が連日読書と浜を散歩したり釣りする様な生活となると、むしろ済まぬ様な気がし退屈する事になる。
 汗を流し一日の勤めを終え、週末に好きな事をして過ごすのが楽しいものであって、連日今日は何をして暮らそうかというのもつまらぬものである。
 そのうち我々もサンパウロに送られ、仮釈放となり家族のもとにかえり、一年ばかりの間に予審調書の為、サンパウロの中央裁判所に何度か出頭後、再収監され法による裁きをうけたのである。
 前世紀の遺物である流島生活をしたが、我々は覚悟の上での行動であった。前にも述べたが、7名の者が敗戦伝達書に連名それを配布、それによって勢いを得て日本人として許す事のできない言行をする輩が現れたので、その責任を取って貰うべく行動したのが、思いもよらず大きくなってしまったのである。
 当時の真実を知る生存者は2013年4月現在我独りであり、浅学で思う様に書き表す事はできないが、我子孫にだけでも遺して置こうと思い筆をとったのである。70年前の事であり、細かい事やその他の事情は薄らぎ、聞き糺す人達は既に亡く、良い加減な事は書けず、記憶する事を真実に書いたのである。
 重ねて云うが、8月15日を境にコロニアが二つに分かれ、昨日まで語り合った知人友人と気まずくなったが、それによって口論や暴力沙汰は私の知る限りでは皆無であった。
 あの有名人達の署名した伝達書が出廻らなくとも、武力戦による我が国の敗れた事は事実であったのであるから、時が経つに従って皆理解したのではなかろうかと思う。
 我子孫の中にこの遺したものを読んでくれる者が居たら、我々の決行した理由を理解してくれ、敗戦共の都合の良い様な考えで作られた戦後の移民史の一部が違っている事を判ってくれたら、多くの方が汚名を被され、それを糺す事もできず亡くなった愛国者が居た事を知ってくれたら幸いである。(終わり)

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