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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=38

 10時ごろから堪忍の緒も切れ、皆で鉄格子を叩いて大騒ぎを起こし、警察の不法に抗議するが、ただ「静かにしろ」と怒鳴り返されるばかり。そうした騒ぎの最中に、捕まえられずに残った者たちの機転によって差し向けられた弁護士が来た。警察側も不法には抗言出来ず、不当を認め、即出所命令を下し、一同安堵して帰って来た。すると大勢の人たちが詰め掛け労いの言葉をかけて無事を喜んでくれた。どんなことを聞かれたかと、皆心配そうに尋ねるが、答えようがない。
 「いきなり留置場にぶち込まれ、それっきり何もいわれない。夕食を持ってきたが、つき返して、水も飲んでいないので何か食べさしてくれ」と言うと、一同びっくりするやら、安心するやらで皆取って返し、そこいらのバーで売っている物をかき集めて持って来てくれた。一時過ごしの腹ごしらえができ、弁護士の言い分をうかがった。さすが弁護士は慣れたもの、やおら語りだした。
 投書はざら紙で嫌がらせと見える。『村上何某、非国民への見せしめに、近日中に首を貰い受けに参上する故、きれいに首を洗っておけ。 愛国者より』と書いてあったそうだ。『最近、物騒な相談事をしているらしい連中がいる』と耳にしていたそうで、昨朝訴えがあった時にその嫌疑で連行したのだという。警察としては当然の行為だが、連行したら取り調べるのが順序じゃないのか。なぜ取り調べもせず、ただ留置場に叩き込んだのか。
 その理由によってはこちらの上訴も準備をしなければならぬ。「いくら敵性国家の連中とは言え、人権は尊重しなければならぬ。警察署長ともあるものが役職も弁ず、いきなり連行し、取り調べもなく、罪びとの如く留置場にぶち込んだのは許しがたい職権乱用と思われるが、返事は」との問いには署長は口を閉ざし答えようとしなかったという。ともあれ、全員無事に帰宅出来たとは何よりであった。が、戦いは始まったばかりだ。
 その後、警察の動きには何の兆も見えない。そのうちに唯言うとなく、例の脅迫状そのものが、戦勝組を陥れる敵の作戦ではなかったのかと思えるようになった。なんでそんな芝居を組み立てたのか。言うまでもなく、自称知識人は勝ち組を貧乏人の馬鹿揃いだと言って憚らない。自称知識人の猿知恵で脅してしまえば2度と自分たちに脅迫がましいことはするまい、と甘く考えて仕組んだ芝居に思える。
 世情は益々怪しさが増し、ひしひしと何かが迫ってくる気配。次の夜はチビリサ方面で焼打ちがあった。当ドゥアルチーナにも100家族を超す養蚕家があり、その殆どが勝ち組に属する人達で、若しやとの心配で問い合わせが後を絶たなかった。群衆心理とは恐ろしく、いつどういう形で爆発するか予想もつかないので、夜警に力を入れ、災いをできる限り防ぐことにする。
 それ以外に方法はない。だが、人員を集めるのがかなり難しい。各自で警戒するように通知し、随時には出来るものに見回りをしてもらい、男手の無いところは特別に見計らうというように一応の手配はできたが、地域は広範囲で交通の不便もある。それでも10人前後の参加者が警戒に手伝うことになった。それから非常の時は花火で合図をする事等といろいろと手筈が決まった。
 だが、その手伝う者の移動がまた大変だった。同じ植民地だけに限らず、遠いところは何十キロも離れた所もあり、それに1日の労働を終えてからの移動。雨や風の夜でも、構わず通うのだから大変だ。しかし世の中の物騒さを静めるため、無防備の善人が少しでも安心して生活ができるためには誰かが務めなければならなかった。

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