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パナマを越えて=本間剛夫=11

 私は日本の学者たちの通訳で二カ月もアマゾン流域を歩き廻ったこと、その役目を私に名指したのが、母校エメボイ農大の英人教師だったことを思い出したが、アマゾンから水晶やダイヤが採れるとは知らなかった。
「あまり良質とはいえないが、アマゾンは宝石の宝庫ですよ。それが、りっぱな兵器になる」
 船長はいちいち私の意表を働いた。
「しかし、それは軍関係者以外は誰も知らない。石油鉱脈があるのも……。本船がベレンで積んだのは水晶です」
 船長は何もかもしっていたのだ。私はもうどんな抵抗も無益なことを知った。私がアマゾンに入ったのは、初めての大旅行だった。河口のマラジョウ島からペルーの国境まで約三千キロ、これは青森から関東までの距離とほぼ同じで、このジャングルと河川をボートと騾馬隊を組んでの二カ月の調査だった。教授から通訳の話があったとき、私は喜んで、この役を引き受けた。北部ブラジルを知る千載一遇のチャンスだったからだ。
 太平洋に沿って北東に延びる海岸山脈は、奥地との交通を遮断するという地理的条件が、奥地の開発を遅らせ、北ブラジルの経済的貧困を宿命的なものにしていた。内奥地から大西洋への交通網がベレンを扇の要として開発されるなら、産業のみならず文明の光も浸透する。この問題の解決はブラジルの識者の夢なのだ。私は日本の学者たちが、どんな目的で、この未知の深いジャングルに挑むのかは知らなかった。
 海岸山脈の急斜も急流も越えなければならないが、詳しい地図もなく、外国版の古い航空写真に頼らなければならない。私は往復二カ月にわたった、この旅を昨日のように思い出した。
 日本の若い学者たちは毒蛇や得体の知れない昆虫類に悩まされながら穴を掘ったり、川底の石塊を拾い集めたりして帰国した。
 その頃、英人教師は本国に帰り、彼の授業は一カ月ほど休講になり、それと時を同じくしてブラジルの新聞は、英国が十年計画でブラガンサ、ベレン間の鉄道敷設権を取得したと報じた。それが現在の北ブラジル唯一の鉄道である。
 その報道は英国から長期借款によって、未開発地帯に光を与えるブラジルの宿願を果たすものとして国民に感迎されたが、一部では英国が無条件で借款を与える筈はなく、目的は地下資源にあるのだとあやぶんだ。
 そして、この計画が英人教師の帰国と密接な関係があるとすれば、日本の学者たちは帰国後、いったい何をしていたのか。単に学術上の報告だけで、政府に対して何の働らきかけもしなかったのだろうかと、歯がゆい思いをしたことを思い出した。というのも、北ブラジル唯一のベレンの港湾施設建設にも、日本は代表的な建設業界二社の足並みが揃わなかったために、入札に失敗して英国の手に落ちたという経緯を店長から聞かされているからだ。

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 西独のルフトハンザ機ハイジャック事件の処理が、その数日前に行なわれた日航機ハイジャックにとった姿勢と対比して世界の話題をさらっていた一九七七年十月八日未明、私はブラジルからの国際電話で眼を覚ました。
 それはアメリカの日系二世ミナミ氏が八十四歳で亡くなったという旧友からの知らせだった。私は彼のために四十年近い歳月、沈黙を守らされてきた。

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