ホーム | コラム | 特別寄稿 | 「ここを先途と」大歓迎=全パ日系老人クラブ親睦の集い=パラグァイ 坂本邦雄
アマンバイでの大歓迎の様子
アマンバイでの大歓迎の様子

「ここを先途と」大歓迎=全パ日系老人クラブ親睦の集い=パラグァイ 坂本邦雄

 今年は第6回目に当る全パ日系老人クラブ連合会(山脇生年会長)の親睦交流会が予定通り5月17日(日)にアマンバイ県都ペドロ・フアン・カバリェロ市(以下PJC)の日本人会々館に於いて地元の老人クラブむつみ会(山脇氏会長兼任)と同地日本人会(原本功会長)の共催で盛大に行われた。

 当日午前09時から『第二の青春、あなたも楽しい、私も楽しい』をキャッチフレーズに掲げて始まったこの親睦交流会には、来賓の上田善久パラグァイ駐在日本国大使夫妻、パラグァイ日本人会連合会の前原弘道会長と全パ老連ク顧問のタオカ・イサオ前駐日パラグァイ大使を始め、クラブ毎の会員参加者は各地福祉ボランティアを加えて、アスンシォン寿会45人、イグアス鶴寿会21人、ラ・コルメナ福寿会4人、エステ東寿会15人、エンカルナシォンあけぼの会11人、チャベス相生クラブ5人、ピラポ寿春会37人、ラパス長寿会15人と地元のむつみ会44人で優に200人以上の交歓の場となり正に盛況であった。
 そして、これまたアマンバイ婦人部の心のこもった豪勢なビュッフェ式に用意された昼食の様々な和食メニューを皆で満喫しながら観賞したアトラクションの各演目も圧巻だった。
 中でも特筆すべきはブラジルのドラードス市から遠路馳せ付けた舞踊グループの色んな踊りや御陣乗太鼓などが人気を博した。かようにアマンバイむつみ会の心からのおもてなしに預かり、第6回全パ日系老人クラブ親睦交流会は大成功裡に午後3時頃に無事閉会し、各参加グループは大いに満足し、謝意を表しながら夫々の帰途についた。

アマンバイの大歓待

 ところで今回のPJC市での交流会の下馬評としては、アマンバイむつみ会の歓待が「ここを先途(せんど)と」(勝敗の瀬戸際)とも思える大変な奮発ぶり。他の参加老人クラブは圧倒され、次回の開催地の番に当る筈のラ・コルメナ当りでは、「とてもこれほどの接待は出来ない」と言う心配もあり、冗談ではない笑い話もある。
 さて、ここで筆者とパラグァイ人のワイフも属するアスンシォン寿会(菊池明雄会長、全パ老連ク副会長を兼ねる)のアマンバイ行きを廻っての話になるが、我々参加者一同は16日朝7時にアスンシォン市の隣町フェルナンド・デラ・モーラ在神内日系社会福祉センターに集合し、ダブルデッカーバスでPJC市に向けて勇んで出発した。

古戦場跡地などを見ている様子

古戦場跡地などを見ている様子

 生憎最近は天気の悪い日が続き、当日も曇天で道中雨にも遭った。途中二カ所で休憩、弁当も車中で使い、PJC市より50キロ前の「セロ・コラ国立公園」内の古戦場遺跡で、折り良く雨も止んだので一同記念写真を撮ったりしながらの観光。それを終えてからPJC市に至り、華僑系の大きな「ショッピング・チャイナ」でしばらく、一同買物を楽しんだ後、予定の「ホテル・ポルタル・デル・テレレ」に投宿したのが既に暮の18時過ぎだった。
 このホテルは新築で中々設備もキレイで良いのだがエレベータと云う物がなく、部屋の割り当ての関係で我々老夫婦は3階の一室に上げられたのには閉口した。住所は国境街道に近いAv・Internacional・Dr.Franciaである。
 そして、夕食はその近くに在るブラジル側の「レストラン日本」で皆で一緒にした。主にセルフ・サービス式の日本料理が食べ放題で、大変繁盛している様に見受けた。

連接国際都市PJC

 国境の町PJC市に来ると国際色が豊かで、国境街道を越えてのブラジルポンタ・ポラ市にいるのかパ国側にいるのか、一寸錯覚を起こす。
 この様に背中合わせのPJC市とポンタ・ポラ市はコナベーションを形成する、両国側の人口合わせて約35万人と言われる連接(連担)国際都市なのである。
 PJC市はアスンシォン市より536キロの地点にあり、標高は海抜600メートル強(ア市は43メートル)で、パラグァイでは一番の高所なので別名「国土のテラス」とも呼ばれている。
 この地のアマンバイ日系社会の存在は1956年に始まる。つまり米人ジョンソン氏が戦後に興した旧CAFE(株)(Cia・Americana de Fomento S・A)のコーヒー農園のコロノ契約移民として当初入植した約1千人の日本人農家が原点となったのである。
 昔サンパウロの奥地モジアナ線のコーヒー園の契約コロノの息子だった元ブラジル移民の経験がある筆者は、PJC市の人達にはなぜか一種の連帯感を覚える。
 アマンバイへの日本人入植は、他の戦後のパラグァイ日系移住地に先駆けた一つの異なったケースであり、移住振興会社(株)や海協連(現JICAの前身)との関係が直接なかったのである。
 破産したCAFE(株)で苦労されたアマンバイの人達は、その後それぞれが独立、日本へ帰国、又は隣国へ転住する等で現在は凡そ100家族が主にPJC市や近郊に定住し、商業、農業に従事され、現在の隆盛なアマンバイ日系社会を形成しているのである。

日系農協の設立を世話

 序でに特に思い出に残るのは、筆者が未だ移住振興会社(株)の職員だった頃に、アマンバイ農協の法人格の取得申請手続きのお手伝いをしたことである(1960年12月18日創立、組合員53人)。
 同じく先に出来たフラム移住地の富士、ラパス、サンタローサとチャベスの4農協を傘下にしたイタプア農協連(1959年)と、次のピラポ農協及びイグアス農協に続いて、アマンバイは一番最後にお世話した農協である。
 この間アスンシォン園芸組合の設立手続きもあった他、イタプア農協連は解散し、フラムでは現在のラパス農協に4組合が統合された。
 なおその後、筆者が住友商事のアスンシォン事務所長だった頃に、日本政府の無償資金援助によって保健社会福祉省のアマンバイ地域総合病院がPJC市に、戸田建設及び住商の医療機器設備を以って新築装備され、折りしもパラグァイ日本人移住五十周年記念祭(1986年)にご来臨された常陸宮同妃両殿下及びストロエスネル大統領のご臨席の下に、落成式が行われたのは感激の思い出である。
 今回のPJC市での全パ労連ク親睦交流会の序でに同病院の現状や落成時に残された建築担当企業の戸田建設や住友商事の名が彫り込まれた名盤が未だ存在するかどうか一寸見て来たかったが、時間の関係で行けなかった。
 なお「セロ・コラ国立公園」の古戦場遺跡は三国同盟戦争の最後、1870年3月1日に大統領フランシスコ・ソラノ・ロペス元帥が、追跡して来たブラジル軍の槍騎兵の一軍曹に降伏を求められ、「余は国と共に死す!」と叫び戦死した地であるが、この話は長くなるので、また何時か次の機会に譲りたい。

image_print