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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(11)

英国資本、参入

 1923年末、時の大統領に招かれた英国の経済使節団が、この国を訪れた。メンバーの中にロード・ロバト(LORD LOVAT)卿がいた。男爵であり、51歳だった。卿は英国の一流会社スーダン・プランテーションズのオーナーの一人であった。
 同社はアフリカのスーダンで棉を栽培、英国へ輸入、紡績業界に供給していた。その紡績業界は当時、興隆一途にあった。が、原料の綿の確保が不安定になっており、卿は、ブラジルで新しい栽培地を探そうとしていた。
 1924年1月、卿は北パラナを訪れた。偶々メスキッタが案内役を務めた。卿も、この地方の土地の肥沃さに感嘆した。さらにファゼンダ・ブーグレを訪問し、見事なカフェザールに目をみはった。棉の成長の勢いに感嘆した。
 その夕べ、例のセーデの大邸宅でバルボーザ主催の、贅を尽くした晩餐会が開かれた。鉄道会社の役員、関係者、地元の顔役たちが出席していた。彼らは会社への出資を卿に期待していた。
 話題は、カフェーや棉の栽培、地価にまで及んだ。やがて卿の口から、一同を驚かす言葉が飛び出した。このブーグレを買いたい──というのである。示した買い値も悪くない数字だった。が、バルボーザは即座に断った。このファゼンダは、すでに彼の血肉となっていた。卿に期待していたのは鉄道会社への出資であった。
 しらけかけたその場をメスキッタが救った。州政府が、この北パラナの広大な土地を格安に売り出しており、それを買って、そこにサンパウロ―パラナ線を延ばし、植民事業を起こせば、地価は十倍にハネ上がる……という投資談を紹介したのである。メスキッタはバルボーザの勧めで卿を別室に誘い、撞球台の上に地図を広げ、詳しく説明した。
 以後、曲折はあったものの、卿は北パラナで植民事業を起こすことを決意、ロンドンに帰って出資者を募り、シンジケートを設立した。(シンジケートは当時、日本語には企業組合と訳された。今日の複数の出資者から成る投資会社に近い)

北パラナ土地会社

 次に、そのシンジケートのブラジル子会社をサンパウロ市に設立した。これが高名な「北パラナ土地会社」である。社長には、ブラジル人で土地問題の権威であったアントニオ・バーロス弁護士が招かれた。実務を担当する総支配人(専務)には、スーダンに居たアーサー・トーマスという人物が呼ばれ、就任した。
 北パラナ土地会社は、前出のジャタイの傍を流れるチバジー河の西方の51万5000アルケーレス即ち124万6、300ヘクタールの原始林を買い取った。一企業が入手する土地としては、驚くほどのスケールだった。日本の新潟県くらいの広さである。ここで植民事業を起こした。同時にサンパウロ州で、棉の栽培や関連事業も試みたが、これは成功せず、中止した。
 それはともかく、肝心の鉄道に関する商談は難航した。バルボーザたちは、止むを得ず予算を切り詰めた。パラナパネマに架けた橋は木製で我慢した。汽車と積荷の重量を計算すると危険であり、河を越す時は貨車の車輌を切り離して一輌ずつ渡し、向こう側で再連結し「出発!」という具合だった。
 しかし、曲がりなりにも鉄道建設が進行していることで、人口は増え続け、1924年、ブーグレの在るアランバリはジャカレジーニョから独立して、ムニシピオとなった。これも小さな村ていどであったろう。
 名称はカンバラーと変わった。最初の首長はアントニオ・バルボーザだったが、すぐ別人と代わった。
 線路は1925年、予定のオウリーニョスから30キロ地点まで敷設された。カンバラー駅と命名された。が、会社の経営は悪化していた。バルボーザたちは一刻も早く、北パラナ土地会社に出資して欲しかった。そのための交渉が繰り返された。1928年、結局、鉄道会社は北パラナ土地会社へ譲渡された。出資は実現しなかったのである。
 もっともバルボーザはそれでも構わなかった。彼の狙いは、鉄道会社の経営そのものではなく、カフェーの輸送手段の確保と自分の所有地の地価をハネ上げて売ることにあったからだ。鉄道は、北パラナ土地会社の購入地の入り口(今日のロンドリーナ)に向けて延長されることになっており、彼の所有地は、その沿線にあった。(つづく)

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