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森脇礼之先生の思い出=ドウラードス・モデル校校長 城田志津子

 森脇礼之先生のご逝去、心より哀悼の意を表します。
 日系社会の日本語教育を支え、未来に日本語を託し夢を紡いでいらした大先輩の諸先生方の訃報に接する度、1978年にサンパウロのブラジル日本文化協会(文協)で行われた全伯日本語教師合同研修会に参加し、そこで出会った沢山の先輩諸先生のことを思い出します。
 その先生方から、日本語教育を公然とできなかった戦中、戦後の体験や、日系子弟の世代交代により日本語離れしていく生徒に対する指導法に苦慮する現状など、いろいろ聞かせて頂いたのも教師研修会でした。森脇先生も、研修会で出会った先輩教師のお一人でした。それから37年の長いお付き合いとなりました。
 私が初めて全伯教師研修会に参加させて頂いた1978年、マットグロッソの田舎から鈍行バスに17時間揺られてサンジョアキン駅に着き、時間遅れを気にしながらブラジル日本文化協会(文協)の研修会会場に入ったとき、ちょうど森脇先生と渡辺次男先生がJICA派遣の第一回日本語教師本邦研修報告をしていらっしゃいました。
 お二人の報告を聞きながら教師のレベルの高さに驚き、自分の無学さに恥ずかしくなり、会場の隅で小さくなって座っていました。報告会が終わり、休憩時間になって森脇先生が笑顔で近づいてきて隣の先生に声をかけられました。それから私の方を見て声をかけて下さいました。私が聞かれるままにドウラードスの日本語学校の実情について緊張しながらお答えすると、「一度いってみたいなあ」というお言葉があり、「どうぞ、いらしてください」と即座にお答えしました。
 この会話が、共栄移住地を訪れる森脇先生や先生が創設された『だるま塾』研修生などを迎え、誰憚ることもなく大声で飲んで歌って、娯楽の少ない田舎の夜を賑わす、森脇先生と共栄移住地との長いお付き合いの始まりとなったのです。
 このような無礼講の雰囲気で日本語教育について話し合った結果、南マ州日伯文化連合会傘下の日本語学校の教師には、全伯研修参加のための旅費を連合会が宿泊費および滞在費を所属する日本語学校が負担をするようになりました。お蔭で多く教師が全伯研修に参加でき、教師のレベルの向上を図ることが出来ました。
 多くの教師が研修会に参加することにより奥地の事情も考慮され、83年、柳森優先生・森脇先生の推薦で2名の教師がJICA本邦研修及び日伯中央協会から研修参加することができました。奥地ドウラードスにも目を向けてくださったお蔭で、サンパウロの日本語学校と生徒同士の交流も実現しました。
 これらが契機となり、日本語教育に対する意見交換が活発となり、地域の人材育成の一貫として、学生寮建設真剣に考えるようになりました。そして計画案がまとまり、JICAの助成を得て実現することができました。
 学生寮が完成した頃、サンパウロでは日本語普及センター(ブラジル日本語センター)設立構想が浮上し、検討会が幾度も行われ、日文連(日伯文化連盟)と日学連(ブラジル日本語学校連合会)の合併が最良の方法だという意見が出ましたが、賛否両論でなかなか纏まりませんでした。
 最後には森脇先生や関係者の方と朝川甚三郎先生が日本語教育の未来に賭ける心を理解し合い、それぞれの伝統を尊重し譲り合い、穏便に合併することができたと伺っています。
 普及センター創立により、中南米研修や教師研修が充実し、日本語学校及び教師の連携がより緊密になったことは大変喜ばしい限りです。
 森脇先生の業績は日本からポルトガル語研修希望の学生を受け入れ、教師不足に悩む各地の日本語学校へ派遣し、日本語を教えながらブラジルの滞在費を賄なわせ、10か月の研修の中で国際感覚を身に付けさせる『だるま塾研修制度』を確立したことではないでしょうか。
 この制度は今年で33年を迎えました。その間ブラジル、パラグアイ両国の日本語学校の教師不足を解消し、小さな移住地の日本語学校を支えてきた彼ら117名の活動は、日系社会の発展に大きく寄与してきたのではないかと思います。 
 森脇先生は異色の日本語教師であったと思います。僧籍を持ちながらお寺を飛び出し、ブラジルの子供たちに日本語を教え、落語やお神楽、凧作り、獅子舞などを子供たちと共に楽しみ、多くの研修生に囲まれて未来を語り共に飲みながら一生を終えられたのですから、これも先生のご人徳。なぜか良寛和尚に重なるお人でした。
 先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。                                             
合掌

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