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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(13)

上野米蔵さん(『上野米蔵伝』より)

上野米蔵さん(『上野米蔵伝』より)

 1916年、福太郎の招きで、その親戚の上野米蔵一家がやってきた。同じ年、サンパウロ市の東洋移民会社の社員がブーグレを視察、翌年、若狭丸移民15家族を配耕した。以後も続いた。1932年の調査資料では、ブーグレの日本人労務者は、58家族となっている。
 ちなみに、右の上野福太郎は大きく儲けて日本へ帰国し、移民の目的を果たした。当時の移民の目的は、誰もが錦衣帰郷であった。つまり移民ということになっていたが、実際は出稼ぎであった。
 福太郎の家族は働き手が6人居ったため、1万本という大量のカフェー樹の世話を請け負って、かなり稼いだ。ほかに間作で当てた。間作とは、カフェーの樹間や空き地で、自前で農産物をつくることをいう。収穫物は全て自分のものになった。この間作でミーリョや豆を植えたところ、それが豊作で値も良かったのである。
 しかし、こういう具合に目的を果たしたのは、希なケースであった。殆どは、そうは行かなかった。数年で帰国するつもりでいたのが、10年、20年経っても果たせず、日本の開戦で戻れなくなり、さらに敗戦で帰る所がなくなり、止むを得ず永住してしまった──というのが実情であった。
 ある程度儲けても、都合で、帰国を先に伸ばしている内に、機会を逸してしまった者もいた。彼らの中からは商業、農産物加工業へ進む者も現れた。上野米蔵一家がそれであった。
 米蔵は1895(明28)年、福岡県に生れ、1913年18歳の時、17歳の妻と12歳の妹を連れて渡航してきた。神戸港で移民船に乗る時は、「南米に行ったら、思う存分働いたるぞ。5年経ったら、また、この神戸に戻ってくるタイ」と張り切っていた。
 ちなみに、その頃は「ブラジルに行く」とは言わず「南米に行く」と言った。ブラジルと言っても知らない人間が多かったためである。未だそういう時代だった。移民船は神戸から出港して、西回りで航海した。

上野米蔵一家、大河を渡る

 渡航後、上野米蔵一家はリベイロン・プレット地方のファゼンダに配耕され、カフェザールで3年働いた。長女も生まれたが、稼ぎが少なく、農場主と争いになり腐っていた。そんな時、手紙で福太郎から「ブーグレへ来ないか」と誘われ、一家は移動した。1916年のことで、米蔵は21歳であった。
 一家は、汽車を乗り継いで、2日目、やっとオウリーニョスに着いた。翌未明、ブーグレからカロッサ(荷馬車)で迎えに来た使いと共に出発した。やがて、パラナパネマの岸に着いた。朝が白々と明けてきた。河は、岸の叢や樹々を水漬けにして、滔滔と流れていた。バルサで大河を渡り、対岸に着くと、そこは原始林だった。

 カロッサは樹海の中の細い道をガタン、ゴトンと進んだ。昼なお暗く、ひんやりとした冷気が肌をついた。風が梢を渡って、小鳥が鳴きながら飛び立った。
 行けども、行けども、樹海の中だった。昼食を用意していなかったため、幼女が泣き出して困った。やっと視界が明るくなり、使いが言った。
 「アレがファゼンダだヨ」
 遥か遠くにカフェザールがあった。目には見えても距離は予想以上にあり、着いたときは、日が暮れていた。
 一家は6千本のカフェー樹の世話を請け負った。以後、1923年まで7年間、労務者生活を続けた。(途中、別のファゼンダへ移ったと記す資料もある)
 一家の働きは群を抜いていた。米蔵が頑健な体躯の持ち主であった上、夫人や妹が働き者であったからだ。かなり稼いだ。さらに間作に植えた棉、フェジョン、ミーリョで好収入を得た。そこで独立すべく土地を探した。が、思わしい所が見つからなかった。それと米蔵は(ブラジルの農業は苛酷で、婦女子には長くは無理)とも思っていた。
 ここで、現代風に言えば、発想の転換が起こった。農業ではなく商売をやろうとしたのである。例の、人家らしいものが数軒しかなかった所に、建物を購入した。十年余の間に新しい建物が多くできていて、米蔵が購入したのは22メートル×50メートルという大きさであった。写真が残っているが、煉瓦づくりで、白あるいは白に近い色で壁を塗ってあり、立派な外観である。米蔵はここでアルマゼン・デ・セッコス・イ・モリャードス、通称アルマゼンを開店、上野商会と名乗った。1923年のことである。(つづく)

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