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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(14)=アルマゼンとは?

上野家が住んだバルボーザ耕地のコロノ長屋(『上野米蔵伝』より)

上野家が住んだバルボーザ耕地のコロノ長屋(『上野米蔵伝』より)

 さて、そのアルマゼンであるが──。
 今日、アルマゼンといっても、ピンと来ない人が多いだろうが、開発前線の歴史を咀嚼するためには、看過できない存在である。当時の資料類の中では「雑貨商」と訳されている。筆者は、初めてこの文字を見た時、昔、日本の町や村にあった細々(こまごま)とした雑貨を商う小さな店を思い出した。
 お婆さんが店番をしてタワシやマッチ箱などを売っていた……あの雑貨屋である。が、実際はかなり違った。「雑貨商」という訳は不適当なほどである。
 アルマゼンは日本移民の入国前から、どこの町や村にもあった。生活用品や営農資材を商っていた。現金を持たない小農やファゼンダの労務者に掛売りし、代金は彼らが自分の畑や間作でつくる農産物で受け取っていた。その農産物は販売した。従って仲買商を兼ねた。仲買の方を主とする業者もいた。こちらは、農産物は直接取引となった。いずれの場合も、農業者とは利害が衝突しがちであった。
 日本移民も初期の頃は、このアルマゼンを利用したが、すぐ「(店側が)盗んでいる」と感じ始めた。ずる賢い商いをして農業者の利を盗んでいる──の意味である。きつい表現だが、この言葉は広く永く使われた。この(盗まれている)という感情が、歴史をつくった。産業組合=農協=の設立と運営が、それである。組合は戦前・戦後、日系社会に多数でき、経済活動の核となった。
 一方で、自分でアルマゼンを始める日本人もいた。彼らは同じ日本人の農業者を主たる顧客とした。しかし、この場合も「盗んでいる」と憎しみを買う者がいた。後年、コチア産業組合を興隆させた下元健吉は、こういう言葉を残している。(これは『百年の水流』で引用したが、敢えて繰り返す)
 「百姓を何十年やっても、大儲けした人は少ない。ファゼンデイロになった人もいないではないが、千人か万人に一人の幸運者である。地方を歩くと判るが、金持ち、大地主と言われる様な人で、農業のみで今日を成したケースはない。農業から逸早く足を洗い、百姓を搾取する中間商人になった人である。農業で金を儲けることは容易ではない。中間商人の搾取の結果である……云々」
 この中間商人というのがアルマゼン、特に仲買で大きく儲けた人々のことなのである。下元は「日本人の中間商人」とは特定していない。が、「非日系の」とも断っていない。
 話は飛ぶが、終戦直後の勝ち組・負け組抗争の中で、襲撃事件が頻発した。その多くは勝ち組が天誅の名分で、認識派の指導者を狙った──ということになっている。その狙われた人の中に、アルマゼンの店主が少なからずいた。
 彼らは認識派ということになっていたが、その派で重きをなしていたわけではない。ために、なぜ標的にされたのか、疑問のままになっている。これは実は、彼らに(盗まれた)と怨念を抱いていた連中が、騒ぎを利用、天誅を装って、恨みを晴らした──と見る説もある。それを筆者は、当時を知る数人から聴いた。ともあれ、アルマゼンとは、そういう一面を持つ商売だった。

運に恵まれれば……

 上野米蔵は、日本時代は子供の頃から、気丈で聡明であった。その生家は農業の傍ら、黄櫨(はぜ)や菜種を蝋や食用油に加工して商っていた。それを手伝っていたというから、商いの勘も身につけていたのであろう。アルマゼンへの転業は、自然のことであったかもしれない。
 上野商会は端(はな)から成功した。米蔵は、開店の年から仲買に力を入れ、大量に仕入れ売り捌いた。輸送は馬車では間に合わず、その頃、輸入され始めていたカミニョンを買って運んだ。翌年には乗用車=フォード24年型=を買い、颯爽と乗り回し、世間を瞠目させた。乗用車は、まだ希少な時代だった。以後も事業は数年、順調に伸びた。(つづく)

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