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ニッケイ歌壇 (494)=上妻博彦 選

      サンパウロ      相部 聖花

過去は今過去になりたり未来世は未だ来たらず今を生きるのみ
夫の沸かすコーヒーの香の二階まで立ちのぼり来て今日が始まる
やわらかき冬日を浴びてくれないのつつじ咲きつぎ庭は明かるむ
三か月咲き通したるシンビジウム色おとろえず鉢の縁に立つ
今期三度開花を仰ぐイッペーも天候異変に迷いいるらし

  「評」現実をしっかりと見つめる作者の捉えた叙景歌。三、四、五首を産み出している。過去と未来の接点にいて『立ちのぼりきて』とコーヒーの香をの作、佳。

      サンパウロ      武地 志津

遠藤が土俵に上れば大歓声臙脂の回しにゆったり四股踏む
豊響のきびしい突きをよく忍び遠藤関の豪快な投げ
先場所の負けを根に持つ白鵬か逸ノ城関に黙目押しをする
名古屋場所好調なりし栃煌山両横綱から金星上げる
沸き起こる豪栄道コール白鵬は力任せに激しく寄り切る

  「評」禁じ手でなければ、勝たねばならぬ、これが土俵の上の勝負の世界、体力の限界を自他共に感じた時、意識するのは、歴代の記録を塗り替えることかも知れない。それをなし得るのは、自分だと思っている。モンゴル力士白鵬の情熱と善意はこれからだと思う他はない。しかしこれほど土俵の世界にも熱を入れる歌人を不覚にも知らない。

      グワルーリョス    長井エミ子

手の指も余りたるかな吾が余生木の葉舞い飛ぶ山家の風に
時々はふさぎの虫と手をつなげ流るる風に身をさらしたき
ムケッカは息子とわたしボソボソと夫(つま)お茶漬の雨の日の午後
今もって給水解かぬ我が町もざわざわ花の蕾目覚むる
青い目のおみなの婿のやさしさは運動会にも溶け込む勇気

  「評」しっかりと古典を読みこなした人の作品だからこそ、意味を詠み込む現代短歌が出来る人だと思う。生きた口語そして生きのびる作品を生むのかと感じる。

      サンパウロ      遠藤  勇

熱あつの煮込みうどんは寒き日の夕餉の馳走心から温もる
何事もやる気起こらぬ寒き朝先ず布団より起き出で難し
もう年だ言い訳にして傍観す何時か身に付く老いの生きざま
菜食を奨める周り気にしつつ今日の味噌汁豚肉いれる
久々に故郷の名物試さんと楽しみの日に無情な冷雨

  「評」この寒気の作品一連読む者の心を、しんから引きつける、もう菜食も時には豚汁でぬくもりたい。その豚汁にあやかりたいと思わせる。こうなると『故郷の名物』がことさら気にかかる、何だろうかなと。

      サンパウロ      水野 昌之

止むを得ず卒寿となりて自炊するめげぬ気力のあるを信じて
何ごとも面倒がらずに片付ける男やもめの自炊あかるし
塩と砂糖適当に入れて味見して足りないものは何かと問いぬ
自炊する食材買いに町へ出て一人分の寿司持ち帰る
もう少し自炊に耐えよう煮付けなど食べよう好きな酒など酌みて
自炊する少ない米を研ぎをりぬ明けゆく朝の深きしじまに
だし汁は料理の基本亡き妻の味に近ずく自炊の夕餉
入念に美味のご馳走作れどもひとりの膳で喰うあぢきなさ

  「評」歌歴ある人で、どの作品にも揺るぎがない。生涯の味はその人の持ち味であって、調味料はやはり自然(まま)のままが第一と思う。『足りないものは何かと問いぬ』にこの人の人間を感じる。そして『ひとりの膳で喰うあぢきなさ』はさらに、ひろがりをもっている、と思う。

  サンジョゼドスピンニャイス  梶田 きよ

十二年住みたるのみの日本を見ることもなきわれの運命か
ふえている女性作家の文読みて変りゆく世をしみじみ想う
十二年住みたる祖国なつかしく読書にて知る不思議なことも
よく眠るわが体質もよいけれど寝坊のくせは止めねばならぬ
かいしゃくの仕方で心は和むものと気がつけばよし素直になろう

  「評」十二年だけ日本に住み親とこの果の地に移住した、しかもその後の日本を見ていない。それを『運命』かと自問している。それでも短歌と言う小さな文学を独学で続けている。解釈の仕方では『心なごむもの』としている、この人の素直さは、全作品に通じている。

      サンパウロ      武田 知子

吾が家焼け焼夷弾の油脂踏みつつ逃げしは運の狂いそめしか
疎開して原爆に会い瓦礫分け引ずる足で宮島街道
一夜開け体が二倍に腫れあがり鍼灸により薬無きとて
巡り来る七十年の年月は波瀾幾度命拾いて
その昔平和な国々飛びつぎて五日もかけて今ブラジルに

  「評」七十年の歳月は流れた、あの日、自身の体を一個の荷物を引きずる様に逃がれ一夜を明かし、手当は鍼灸のみだった。これだけで戦争の惨さがひしひし伝わる。もし数万発と言われる原爆が、一國だけの存続をかけてと、言うことがない様にと。

     サンパウロ       坂上美代栄

手相見は母の手をとり訝りてお子は遠くに住まうと告ぐる
薄情な人と言いつつひたすらに母は仕えし世辞なき父に
文はみな母の口述さらさらと書き取りてゆく父の書き好き
早くから死後のこと母言いおきて遺影も準備しさっと逝き給う
母事故死、父の嘆きを妹の文で知らさる月のなき夜

  「評」父母の境界を、そのままに述ながら、読者に切実感をあたえるのは、作者の人間(人となり)味にあるのだろう。一、二首にそれが表れている様に思う。

      バウルー       小坂 正光

創り主、劫初以来の此の地球自転なしつつ昼、夜となる
天体の自転は四季を織りなして秋には収穫、春は花咲く
日本軍の東亜の聖戦、白人種のアジア支配の足枷を絶つ
白人種のアジア支配の撃退に東南諸国は吾が祖国に謝す
終戦時、将官多く割腹し昭和のみ代にも武士道を見す

  「評」戦前移民の信念が表現されている。一方、現代日本人に足りない哲学なのかもと思う。白人の東南アジア支配のあった事はゆるがない事実であるからだ。

      バウルー       酒井 祥造

草茂る牧跡の荒地ユーカリを植むと耕すトラクターの席
風さむく曇る日小雨降り来るトラクターの上耐え難く居る
直線に三百メートルの畝立つる一万二千本植る予定地
蟻山の崩れし所さけてゆくトラクター倒す崩れ恐し
植林に気負う心まだありて風さむき日も耕してゆく

  「評」農業移民としての日本人の切り開いた地を元の森林に復えすことが責任だと自負してやまない。これが日本文化だと、行為としてつづけ、しかも歌を詠みつづける作者の人生観。

      アルトパラナ     白髭 ちよ

はるばるとサンパウロ市より来し客達は一晩宿りて又も出かける
此の寒さに滝を見に行く若き等の元気の良さを吾は羨しむ
暑がりの婿でも今日は冬着着て滝を後のメール届きぬ
客も無く今日は天気と吾娘は今洗濯掃除と又も忙がし
又もかと暗きニュースのテレビ消し空見上ぐれば白き昼月

  「評」身のめぐりの日びを無理なく詠みこなすことの可能な人。おだやかな心と眼が、生活と共にあるからだろう。

      ソロカバ       新島  新

世の景気悪い悪いと言われるが空いてた倉庫がつぎつぎ埋まる
嫁のお供で朝市へ買い物に我はカリンニョ引いているだけ

『カリンニョ』はポルトガル語で『カート』のこと。ブラジルでは、朝市やスーパーへこのようなカートを引いていくのが一般的である。

『カリンニョ』はポルトガル語で『カート』のこと。ブラジルでは、朝市やスーパーへこのようなカートを引いていくのが一般的である。

関心は無きにあらねど一緒には行く勇気なし下着の買い物
悪い奴ほどよく眠る聞いた事ある言葉だが言い得て妙
妻曰く貴方の歌はなってない独り善がりといとも辛辣

  「評」今回も新島新の作品が面白い。一首目の不景気の時ほど倉庫にはつまっている。全くこんな時買いためて、昼寝しているのだろう。無関心では作品はうまれないと、嫁さんは忙がしいのだから、カリンニョ引くだけでなく、買物して上げたらいいのに、奥様が『独り善がり』と辛辣なはず。

      ボツカツ       長田 郁子

また一つ薬ふえたネ無理もない雑事終えればふしぶし痛む
針の目に糸を通すは孫の役二人三脚縫い物楽し
朝な朝蕾落されナメクジに花みる楽しみ一年先に
上見ても下見ても花桜咲く日和なりしも風は冷めたく

  「評」体が冷えると、痛みもふえる。小生など四十年ものみ続ける薬があるのにこの頃は検査の度に数がふえる。でも孫とのたのしみ、花を待つたのしみ、こうした喜びが表現されている。こんな作品に接する楽しみを頂いている。

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