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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(26)

二章 バンデイランテス


 農場を守り、守り続けて90年

北パラナの地図

北パラナの地図

 サンパウロ―パラナ線は、1930年、カンバラーから西へ52キロ地点まで延びた。駅はバンデイランテスと名付けられた。これは地名にもなった。
 駅の開設時の賑いについてはカンバラーの章で記したので略すが、周辺の土地が区画化され、道が造られ、商店や住宅、ホテル……が次々と建てられた。ここから3キロほど先に小さな集落があったが、集落ごと駅の傍に引っ越してきた──という。ともかく勢いは盛んで、5年後には早やムニシピオになっていた。役場、警察、カルトリオ、学校がつくられた。
 ここで話は、それ以前のことになる。この地方は、1910年代末までは樹海に覆われており、人間は、カインガンゲス族というインヂオが居ったていどであった。そこに1920年代、鉄道建設を当て込んだ人々がやってきて森を伐採、ファゼンダを造り始めた。その一つが1926年、資金繰りに詰まって売りに出された。
 すると数人の日本人がやってきて買い取った。大阪の新興財閥・野村の社員であった。ちなみに前章で記した様に、カンバラーのブーグレに上野米蔵一家が入ったのは、この10年前、松原武雄一家が配耕されてきたのは1年前のことである。上野や松原は、カフェザールの雑草の中から身を起こしたが、野村は始めからファゼンダを入手して、スタートした。
 この野村が買収したファゼンダが、それから90年近く後の2015年現在、健在である。北パラナでは、日本人が起した事業の多くは、本稿の序で記した「青空に浮かぶ白い雲の様に、フト気がつくと消えてしまっている」という軌跡を辿った。が、消えなかった事業も僅かにある。
 このファゼンダは、その一例である。普通、野村農場と呼ばれる。その農場を訪れると、如何にも平和で穏やかな印象で、90年間、のんびりやってきた様にも見える。しかし、実は、その90年の歴史は危機に次ぐ危機で、責任者たちの人生の大半は農場を守り、守り続けることに費やされた感がある。
 その話に入る前に、創業前後の農場の略史を記しておく。
 ここは、三菱財閥の社主・岩崎家が、1927年にカンピーナスに開設した東山農場と共に、戦前から続いている最も古い日系企業である。財閥は終戦後、解体されたが、当主だった野村家、岩崎家は、今日でも日本に存在し、両農場は、それぞれ最後の砦となっている。その砦が、日本を遠く離れたブラジルにあるというのも、物語的である。
 野村家は、元々は市井の一株屋さんであった。それが日露戦争、第一次世界大戦の相場で巨富を得、銀行、証券、貿易、保険、各種鉱工業に手を広げ、財閥化した。海外にも果敢に進出、1917年、ボルネオでゴム園の経営に乗り出し、その9年後にはスマトラでカフェー園を買収した。以後も、各種の事業を南洋で手掛けた。これは、総帥の野村徳七の決断によるものであった。徳七は、海外事業に強い熱意を持っていた。 

 ポンと100万円

 その徳七を、1925年11月、伊藤陽三という人物が訪問、ブラジルでのカフェザール経営への出資を要請した。
 伊藤は東京商大を出て、三井物産に入社、インドで綿の取引に従事した。が、暴落に遭い辞職、1923年、自費で渡伯、2年間、サンパウロ州は勿論、遠くマット・グロッソ州、アマゾンまで足を伸ばし、農業事情を調査した。しかる後、カフェザールの経営を企てた。しかし資金がなかったため、日本に戻り出資者を探した。
 古巣の三井物産に居た商大時代からの友人に相談すると、「それなら関西に行くといい。東京の実業家は政商で駄目だ。関西の実業家は進取の気性に富み積極的だ。その中でも、今飛ぶ鳥も落とすといわれる野村徳七という新進実業家がいる……」と教えられた。
 早速、大阪に行き伝手を頼って、徳七と面会、10万円の出資を頼んだ。1カ月後、回答があった。内容は、こうであった。
 「10万円ではなく100万円出しましょう。ブラジルに野村のコーヒー農場を建設してください」
 当時の100万円といえば大金である。しかし、如何に海外事業に強い熱意を持っていたとはいえ、初対面の人間の話に乗って、そんな大金をポンと出すなど、常識的にはありえない。小説でも、こういう筋立てで、話を進めたら読者が興醒めするだろう。

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