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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(28)

現在の野村農場の入り口の様子

現在の野村農場の入り口の様子

伊藤陽三の運と不運

 野村徳七は元々、海外事業に強い熱意を持っていた上、政府から働きかけを受けていたため、伊藤陽三の話に直ぐ乗ったのであろう。ただ資金が10万円では、政府が期待するほどの仕事は出来ないと見て、100万円出すことにしたのだろう。無論、伊藤個人を充分調べた上で……。
 伊藤が野村を訪問したのは、まことに時宜を得ていたことになる。運が良かったのだ。
 ともあれ、1926年、伊藤は再渡伯、後続の野村の社員と共に北パラナに行き、ファゼンダの購入を決定した。
 伊藤たちが購入したファゼンダまでは、カンバラーから車道が通じていたが、物凄い悪路であった。しかし、伊藤たちもサンパウロ―パラナ線がいずれ通じる、道も良くなると見て買ったのである。
 なお、このファゼンダには、すでに2家族の日本人移民が働いていたという。彼らは、資料類では「バンデイランテスに於ける最初の日本人」と位置づけられている。
 ファゼンダの面積は550アルケーレス(1、331ヘクタール)で、一部は開拓・整地され5万5千本のカフェーが植わっていた。他は森のままであった。買値は日本円に換算すると、11万3千円で、野村には有利な買物であった。
 2年後、農場入り口近くの50アルケーレス(121ヘクタール)を入手した。
 農場の支配人は伊藤がなり、森を伐採、倒木を焼き、その後を整地した。当時は、機械は無く、総て鋸や斧に頼った。
 伐採は大規模な場合、それを専門とする請負人に委託した。請負人はカマラーダを雇って作業をした。しかし彼らを巧く使って利益を出すのは易しくなかった。ために中には、後から契約以上の金額を委託者に要求する請負人もいた。
 伊藤も請負人を利用した。が、やはり、そういうことが起きた。拒絶すると「イトウを殺してやる」と騒いだ。彼らは殺伐で、常に拳銃を所持していて人を殺すことなど平気だった。殺人事件は珍しくなかった。伊藤は、そういう危険の中で仕事を進めていた。
 1927年、カフェーの苗を植え始めた。同年サンパウロ州から移動して来た日本人11家族を4年契約で受け入れた。以後も続けた。所期の目的の移民支援のためだった。
 1928年には、少し離れた所にある600アルケーレスの土地を購入し第二農場とした。野村農場の所有地は1、200アルケーレス(2、904ヘクタール)となった。本部事務所や農業用施設、住宅のほか学校、診療所、薬局、教会、集会用サロン、野球場、フット・ボール競技場などがつくられた。農場では1928年までに第一次計画のカフェー植付けを完了した。樹数は計30万本であった。
 かくして伊藤陽三は、日本の財閥から資本を引き出し、カフェザールの造成を始め、一段落つけたわけである。ビジネスマンとして、気分は心地よく熱していたろう。しかしながら、この伊藤、それから僅か二年後の1930年には、支配人の職を辞し農場を去っているのである。
 原因は、カフェーが大暴落、経営の目論見が大きく狂ったことにあった。市況がそうなったのは1929年、世界恐慌が発生したためである。伊藤の責任ではない。しかし以後の経営方針に関し、日本の本社と伊藤の間に意見の対立が生じた。伊藤は結局、身を引いた。インド時代の綿に次ぐ二度目の暴落による蹉跌である。運が去ったのである。苛酷な成行きだが、ビジネスの世界では、昔も今もありふれたことである。

略奪、赤字……

 かくして農場経営は創業数年で乱れ始めた。1932年には、内乱の被害を受けた。その折の兵士による徴発と称する略奪については、前章で記したが、同じ事がここでも起きたのである。
 最初、リオ・グランデ・ド・スール州から北上してきた部隊に属するカオールという下士官が、部下を連れて乗り込んできた。その場で牧場の牛を屠殺し牛肉として持ち去るという荒々しさであった。さらに乗用車1台とロバ数十頭も奪って行こうとした。
 憤慨した農場の用心棒イナシオ・ゴンザルベスが下士官を撃とうとした。これは支配人が制止した。しかし子供の通学用のロバまで取り上げようとした時は、この用心棒、怒って拳銃を乱射した。これに、その数十頭のロバが驚いて皆、逃げ散ってしまった。ロバは後刻、自分で農場に戻ってきた。
 略奪は以後も数回続き、農場で働いていた日本人が間作で栽培、収穫してあった籾3、000俵が奪われたこともあった。

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