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日本とチリ、海を通じる結びつき(3)=チリ・サンティアゴ在住 吉村維弘央

 ペルー滞在は僅かに5日間で、5月20日にカヤオを出航しハワイ国ホノルル港に向かった。カヤオ港からホノルル港迄44日、航程5,526海里を経てホノルル港に投錨。44日間の滞在の後8月5日ホノルル港を出航、9月16日品川湾に帰着した。
 カヤオ港よりホノルル港に向かう航程で乗組員の間に脚気患者が続出し、その数は130名を数えたらしい。航行中15名が死亡、ホノルル病院入院中に8名死亡、この航海で合計23名の犠牲者を出した。因みに龍驤の乗組員は士官以上49人、練習生49人、下士官48人、水兵214人、見習水兵40人、合計378名であったので、ほぼ3人に1人が脚気に悩まされたことになる。
 後年これらの士官、生徒より、艦長伊藤大佐、加藤友三郎少将補は元帥に、出羽重遠少尉、藤井較一少尉補、生徒山下源太郎、加藤定吉、武久又八郎(その後名和と改名)がその後海軍大将に上りつめた。中でも加藤友三郎は元帥の称号を得た後、総理大臣にまで登りつめ、議会での流れるような答弁と共に、名宰相の名を留めたことを書いておきたい。
 この歴史的挿話を教えてくれたのは親友の尺田栄三(しゃくだ・えいぞう)君で、送って貰ったコピー、小笠原長生著「元帥伊藤祐貞亨」の中の第四章新西蘭(ニュージーランド)航海に上記が記載されている。(尺田栄三君は小生の小さな人生に係わった数多くの方々の一人であり、1960―80年代の激動のパアグアイ、チリ、メキシコ等に在住。農業、漁業、町工場、銅鉱山開発、自動車組立工場などで辛苦の青春時代を過ごし、現在は故郷の広島で余生を送っている。)
 なお、龍驤ヴアルパライソ入港一週間後の4月22日龍驤乗組員、3等水兵猪俣孝之進が享年16歳で死去、ヴァルパライソの共同墓地に埋葬された。死因は脚気と当地では理解されている。
 明治15(1882)年がどのような年であったか、明治時代年表を紐解くと、種々の出来事のうち小生が興味を引かれるものに次がある。

– 日本全国人口 36,700,118人 (東京人口982,143人)
– 陸海軍に「軍人勅諭」発布
– 上野動物園開園
– ドイツの細菌学者コッホにより結核菌が発見され予防法が発表された
– 東京でコレラ発生 、死者3万人以上
– 東京馬車鉄道、新橋・日本橋間開通。その後更に延長京橋より上野間営業
– 東京初の路面電車開業
– 日本銀行条例公布。開業開始
– ニューヨークに初めて電燈点火

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