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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(30)

 すると、ある日、カンバラー警察のコルデイ署長から「クリチーバ(州警察本部)から、貴下を逮捕するよう指令がきている。至急、州外へ出るように」と伝えてきた。この逮捕令は、農場の管理人が「牛草がカンバラーに居ては、木村と連絡をとって、自分たちのすることを何かと邪魔する。クリチーバの刑務所へ送り込もう」としてやった工作である疑いが濃厚だった。
 コルデイ署長は牛草の友人で、事情を知っていたため、こういう配慮をしてくれたのである。牛草は直ぐオウリーニョスの知人宅へ移り、同地の弁護士を通じ人身保護申請の法的手続きを行った上で、カンバラーに戻った。
 この他、州政府の高官が中心になって、野村農場を接収、競売に付し、それを彼らの仲間が格安で落札するという策謀が企てられたこともあった。策謀は競売許可を大統領に申請する段階まで進んでいた。
 これを察知した牛草たちは、親交のあったシリア系のエリヤス・デフネという弁護士に依頼、大統領に直訴して貰うことにした。デフネは、こうした時局を利用した役人の策謀に義憤を感じていたので、直ちにリオに急行した。
 ヅットラ大統領に面会、膝詰談判をし、野村農場の功績、特に小麦栽培の成功を強調、接収の不当性を説いた。これで大統領は競売を不許可とし、乗っ取りは阻止された。危機一髪であった。
 以上の様な各種の不正は、別段、特異なケースではなかった。ブラジル人というのは、その多くがチャンスさえあればやったことで、その習性は今日でも変わらない。

白皚々たる枯れ枝の山

 それはともかく乗っ取りを阻止しても、農場が戻ってきたわけではなかった。州政府の管理下に置かれたままであった。以後、牛草は、サンパウロ市で山本喜誉司らを中心に進められていた敵性国資産凍結令の解除運動に加って、農場取戻しの努力を続けた。山本は戦前、東山農場を中心とする東山系企業の総支配人をしていた人物である。
 運動は実り、1952年、農場は返還された。名称は元の野村農場に戻した。牛草も復帰した。10年ぶりのことであった。
 しかし、その時、戦前は緑一色に覆われていたカフェザールは荒廃の極にあった。無施肥の略奪農法の結果であった。資料類はその様を「白皚々たる枯れ枝の山と化していた」と記している。開戦直前は年間4万俵近くあった収穫量が1500俵まで減じてしまっていた。
 これを見たカフェー栽培の専門家たちは、誰もが「とうてい回復の見込みなし、牧場にした方がよかろう」と忠告した。経営資金も全く底をついていた。しかし、牛草たちは、カフェザールを起死回生させる方針をとった。農場で働いていた300家族を放り出すわけにはいかなかったし、ビジネスマンの意地もあった。野村徳七の負託にも答えねばならなかった。
 その徳七は、昭和20年1月に、日本で故人となっていた。1年後、野村財閥も消滅した。日本を占領した連合国軍の総司令部が、財閥解体令を出したのである。野村財閥の事業は総て野村家から切り離され、独立した。南洋の事業は没収された。ただブラジルの野村農場は、当時、連絡すらつかず、つくようになっても、州政府の管理下にあったため、そのままになった。これが逆に幸いした。凍結令が解除され、農場が返還された時、日本に於ける財閥解体は終わっていたからである(その後、野村家は、前出の新しい野村合名を設立、野村農場を傘下に置いた)。

来る年も来る年も、火の車

 そんな具合であり、カフェザールを回生させると言っても、日本の野村家は頼れなかった。牛草は、それまで何の取引関係もなかったパラナ州立銀行の総裁に面会、窮状を訴えた。すると、総裁は即座に必要資金の一部を無保証・無担保で貸してくれた。
 さらにサンパウロ市の南米銀行本店に、宮坂国人を訪ね復興資金の融資を懇請した。宮坂は承諾した。前章で記したが、宮坂は南銀の創立者で、戦後、同行再建の中心だった人物である。
 野村農場は、以後、懸命の資金繰りが続いた。来る年も来る年も、火の車だった。一方で、牛草が自費で持ち込んだ5台のトラクターで、雑草に覆われ硬くなった土地を鋤き返し、カフェー樹を徹底的に剪定し、鶏糞を土に入れた。農場で働く人々の収入は極端に少なく、グレーベ=ストライキ=が起こることもあった。が、牛草の諄々たる説得で、皆、仕事に戻って行った。
 ただ、次の様なこともあった。1964年、軍部によるクーデターが起きた時のことである。この直前、国内世論は急速に左傾化、共産革命の勃発も危惧されていた。軍部はその阻止のため動いたのであるが、同時期、野村の第二農場内に共産党のオルグができており、革命後の農場占領計画まで用意されていた──というのである。

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