ホーム | 特集 | 独立記念日=ペドロ1世の隠し子か?=奴隷の息子でミナスの男爵=歴史家マテウス氏が研究
ファリア氏の両親の写真が掲載されたページを開いた本を抱えた歴史家マテウス氏(この件を報じるサイトhttp://www.euamoipatinga.com.br/より)
ファリア氏の両親の写真が掲載されたページを開いた本を抱えた歴史家マテウス氏(この件を報じるサイトhttp://www.euamoipatinga.com.br/より)

独立記念日=ペドロ1世の隠し子か?=奴隷の息子でミナスの男爵=歴史家マテウス氏が研究

ブラジル帝国国旗(1822)

ブラジル帝国国旗(1822)

 1819年に生まれ、1903年に亡くなったミナス州の農園主、アナクレット・コレイア・デ・ファリア氏は、マリアナ・ファウスチーナ・ジョヴィタと呼ばれる奴隷の息子として生まれた後、1864~70年のパラグアイ戦争に参加して功績を挙げ、男爵の称号を授かった。だが、8月23日付フォーリャ紙サイトなどによると、歴史家のフラヴィオ・マテウス・ドス・サントス氏は、ファリア氏が「イタペルナの男爵」となったのは高貴な出自故と見て研究を進めている。これは、ファリア氏が、既に40人が登録されているドン・ペドロ1世の隠し子である可能性があるからだ。

ドン・ペドロ1世(Simpl兤io Rodrigues de S・- Museu Imperial de Petrolis、ウィキペディアより)

ドン・ペドロ1世(Simpl兤io Rodrigues de S・- Museu Imperial de Petrolis、ウィキペディアより)

 ドン・ペドロ1世(1798年10月12日~1834年9月24日)は、ブラジル帝国の初代皇帝(在位1822年~31年)で、イピランガの丘で「解放か、死か」と叫んでブラジルの独立を宣言した事から、「解放者」と呼ばれている。
 なお、ポルトガルではペドロ4世(在位1826年)として知られ、「戦争王」の異名も持っている。
 1822~31年に皇帝としてブラジルを治めたドン・ペドロ1世は粗野で横暴な人物とされ、普段は陽気だが、突然鞭を振り上げて暴れるようなところもあったという。最初の妻マリア・レオポルディナ皇后が29歳で早世したのは、彼の暴力ゆえと言われる所以だ。
 ドン・ペドロ1世は、ポルトガル宮廷がリオに滞在中に王太子となり、1817年にレオポルディナ妃と結婚。1821年にポルトガル宮廷がリスボンに帰還した際、ブラジル摂政として残ったが、独立を望む人々に擁立され、1822年に独立を宣言した。
 初代皇帝となったのは24歳の誕生日で、10月12日にブラジル帝国を建国する事で一致。12月1日に戴冠式が行われたが、ポルトガルの最後の抵抗部隊が降伏したのは1824年だった。
 ドン・ペドロ1世はレオポルディナ皇后との間に7人、後妻のアメリア・デ・ロイヒテンベルク(アメリー・ド・ボアルネ)皇后との間に1人の子供をもうけたが、それ以外にも大勢の女性と関係を持ち、子供を作ったとされている。

ファリア氏はペ2世に直訴

ドン・ペドロ2世(ウィキペディアより)

ドン・ペドロ2世(ウィキペディアより)

 歴史家のマテウス氏によれば、ファリア氏の母のジョヴィタ氏は司法当局によってリオ州にほど近いムリアエ市に転居させられた後、ルシアノ・コレア・デ・ファリアと呼ばれる商人と懇意になり、生涯を共に過ごした。ルシアノ氏はファリア氏を自分の子供として認知して、旧称メルセス・ド・ポンバ市で1819年7月13日に生まれたと届け出ている。
 ファリア氏は二人の子供として、貧しい子供時代を過ごしたが、1880年代には、自分が持つ事ができるはずの権利を要求するため、ペトロポリスに出向き、ドン・ペドロ2世(在位1825~91年)と会見を持つ機会を得ている。
 当時の文献によれば、1889年8月10日にドン・ペドロ2世から男爵の称号を受けたファリア氏は、ミナス州からエスピリトサント州にまたがる、ヴァーレ・ド・リオ・ドッセと呼ばれる地域の土地を買い求め、そこに移り住んだ。ファリア氏の所有地は皇帝時代のブラジルでも大きく、イパネマからカランゴーラ市に至る50万ヘクタールを購入したとの説もある。1886年10月25日に作成された文献によると、ファリア氏は当時、約90人の奴隷を所有していたという。
 ファリア氏の称号となったイタペルナは、その後、ミナス州とリオ州にまたがるいくつかの市に分割された。
 ファリア氏が男爵となって間がない1889年11月15日、ブラジルではマレシャル・デオドーロ・ダ・フォンセッカ氏の指揮でクーデターが起き、共和国宣言が出されたが、ヴァーレ・ド・リオ・ドッセ地方では、その前後も武器を手にした戦いが続いた。マテウス氏は、同地方での武力抗争はファリア氏が皇帝の一族と特別な関係を持っていた事が原因だったのではないかと見て、研究を進めている。

立証不可能との意見も

 2004年6月発行のVoga誌によれば、ドン・ペドロ2世はファリア氏への称号授与後間もなく国外に追放されたため、イタペルナ男爵という称号は当時の歴史的文献には記載されていないともいう。
 ドン・ペドロ1世が2人の皇后以外の女性との間にもうけ、正式認知した子供は、サントス公爵夫人ドミテイリア・デ・カストロ氏との間に4人、ソロカバ男爵夫人マリア・ベネディタ氏との間とアンリエット・ジョセフィーネ・クレマン・セー氏(サイセット夫人)との間に各1人の6人のみだ。
 歴史家でルイ・バルボーザの家基金研究員のイザベル・ルストーザ氏によれば、ファリア氏の子孫で医師のエレニイ・マシャド氏は9年間かけて家系図を作ろうとしたが、ファリア氏が皇帝の子供である事を立証する事は出来なかったという。
 ブラジルでは1891年にドン・ペドロ2世が死去したが、ヴァーレ・ド・リオ・ドッセ地方では混乱が続き、1896年にジョアキン・チブルシオ・ダ・コスタ将軍が約800人の部下を率いてミナス州カラチンガ地方のマニュアス市に侵攻。同将軍はマニュアス共和国設立を宣言したが、わずか22日で軍に屈している。
 イタペルナ男爵は1903年に亡くなり、その遺体は同年11月21日にマニュアス市のサントアントニオ・ド・マニュアスー墓地に葬られた。同墓地には現在、手入れが余り行き届いておらず、皇帝一家とのつながりを示すものもほとんどない簡単な墓碑だけが残っているという。

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