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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(34)

 後から知ったそうだが、ブラジルでは、園芸作物に特許権というものはなく、それに代わるものは学会での発表だけであった。
 奥山家では、コチア産組の間島正典技師の計らいで、夫人の名で日本でも品種登録をした。すると、やがて農林省から特許料を送金すると連絡してきた。孝太郎氏は断ったが、何度も電話してきて「受取ってくれ」と言う。その度に断り続けたが、先方が困り果てたため、止むを得ず受取った。金額は200万円だったという。筆者は拍子抜けした。
 孝太郎氏は、ルビー・オクヤマがブラジルと日本で、どの程度普及したかも知らない。筆者は感嘆した。昔はこういう清清しい日本人が何処にでも居たものだが、今は出会うことは希である。


母国語教育への拘り

 以下しばらく、その奥山さんの回想録によって話を進める。
 孝太郎さんは、山形県に生まれ、両親に連れられ、1929年、5歳の時に移住してきた。プロミッソンに入り、2年後、サンタ・マリアナに移った。サンパウロ―パラナ線が、ここまで敷設された1931年のことである。当時は、この地域も、やはり樹海で、森の中のピカーダ(小径)を行くと、日中でも蛙がコーラスをしていたという。そこに土地を入手し、開拓したわけだが、孝太郎少年は姉たちと、その作業に加わった。樹林伐採中、姉が頭部を10センチも切る怪我をしたこともあった。
 入植者は草分け組と呼ばれる16家族と、その後入った家族が同じくらい居た。アルト・パルミタール植民地と名乗り、日本人会を組織し小学校をつくった。小学校といっても、日本語の私塾の様なものであった。追々、役場の公認を得て、ポ語の授業も行う予定であった。が、まず日本語であった。当時の人々は、子供への母国語教育に拘った。
 ところが、その後、日本人会も植民地も二つに分裂してしまった。小学校も二つできてしまった。その一つは校舎の建材は総て銘木のペローバの角材であった。もう一つは板作りであったが、なかなか立派なものだった。当時の校舎は、普通は小屋であった。しかし、どうして、そういうことになったのだろうか。
 実は、植民地は広く、後続組は、小学校から離れた所に居った。その子供たちは遠路を歩いて登下校しなければならなかった。途中、子供たちが怖がる野生の動物も居た。そこで、校舎の移転を要求したが、草分け組は、これを入れなかった。
 ために後続組は、別に日本人会を組織、居住区に明徳植民地と命名、これみよがしに、ペローバ製の新校舎を建てた。すると、草分け組は負けてなるものか、と、それまでの小屋を板作りに改装した──いう次第。1935年頃のことであった。
 ともあれ、その様にしてつくった小学校であったが、開校間もなく、いずれも閉鎖されてしまった。この国にナショナリズムの風が吹き始め、1937年、14歳未満の児童にたいする外国語教育が禁止されたためである。
 サンタ・マリアナには、もう一つ東照という名の植民地ができ、ここも日本人会が組織され、小学校をつくった。これも閉鎖された。
 しかし、いずれも入植者は母国語教育を続けた。他地域と同様、表面上、閉鎖したことにして、校外でいわゆる隠れ授業を始めたのである。三校に一人ずついた先生が植民地内を巡回、子供たちを、適当な場所に集めて、こっそり授業をした。が、三人とも警察に逮捕されてしまった。いずれも、袖の下を渡し、釈放して貰った。

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