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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(7)

恩人の石川盛得氏

恩人の石川盛得氏

 この耕地は、まだ未整地だったが、土地は大変肥沃だった。若い連中は共同で住家を作り、山羊小屋作りにせいをだした。年寄りたちは荒地を耕し米を植え付けた。稲はたちまち育ち豊作であった。
 ところが、収穫直前になって40年ぶりといわれる大雨に襲われてしまった。この土地は盆地のように低い土地だったので、一挙に水害にみまわれ、滝から水が襲いかかるように流れ込み、豊作の稲穂は水に沈んだ。水はなかなか引かず、やがて泥にまみれた稲の無残な姿が浮かび出た。
 もはや声さえ出ず落胆し、疲れ果ててしまった。もう動けない。とうとう自分はマラリアに感染してしまった。妻子、老人をかかえている7家族が一丸とならなければならないのに、動けない。
 ドッと涙があふれて、シクシクと泣くばかりであった。妻子を「こうも哀れさせて」という思いに涙があふれてどうにもならなかった。

 闘病、そして再起―カンポ・グランデの県人と親族の恩愛に囲まれて

 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
 そこで私は、耕主の上間さんに、「カンポ・グランデに行けば日本人の医者に診てもらえるかも知れないので、どうかバス賃を貸してください」と、たった9コントを貸してもらい、3日間かけて単身でカンポ・グランデ市に行った。
 ペンションに一人で宿泊、持金も何もなく、水ばかり飲んですごした。私は、カッペンに入植する前に世話になった恩納村山田出身の比嘉親繁さんと、同村仲泊出身の石川盛得さんを尋ねた。石川さんが比嘉さんのところに連れていった。
 比嘉さんには本当にお世話になった。病の身の私をわがことのように親切にして下さり、毎日玉子の食事で英気を養うように励まして下さった。約一ヶ月の療養生活であった。
 そこで私は、比嘉さんに、「持ち合わせの金も何もないが、自分は絵を画くことはできますので、健康が許すようになったら絵をカカチクミソーランナ(絵を画かせてくださいませんか)」と頼んだ。
 比嘉さんは、私を自家用のジープに乗せて街に連れていき、画具用品を買い揃えて下さった。私は絵を描きはじめた。
 これを比嘉さんが友人の家を一軒一軒訪ね歩き、「この絵を君たちに売るんじゃない。この人は、病気にかかっているが薬代もないので、その薬代のために助けてやってくれ」と、押し売りまでやって協力して下さった。
 そんなこんなして後、私は、わが村人で市営のメルカードにバンカを持って仕事をしている阿波根菊栄さん(屋良朝苗元沖縄県知事の姪)にもお世話になった。そこでも弱り切った体で何もすることもできないでいた自分は、意を決してハワイの奥原カマル叔母に今日に至る境遇について手紙を書き送った。すると叔母から100ドルと手紙が送られてきた。

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