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死線を越えて―悲劇のカッペン移民=知花真勲=(9)

ビラ・カロン地区に定着した知花真勲・恵子夫妻とその家族

ビラ・カロン地区に定着した知花真勲・恵子夫妻とその家族

 しかし、言葉もうまくできないし、事情もつかめず、商売のやり方もままならず、結局やめて別の食品店に転業した。それもうまくいかず途方にくれているうちに、やはり自分は自分の「ティージェーク」で身を立てるしかない、ということで看板屋をはじめることにした。
 こうしてビラ・カロンのアベニーダに開店した。開店まもない頃、カンポ・グランデから転住してきた金城勇吉さんという人が沖縄県人会ビラ・カロン支部の会員になっていて、その人が前宣伝していることもあって、支部の役員選挙に当たって書記のなり手がないので「書記になってくれ」ときた。
 結局説得されて、「これも一つの勉強と思ってやってみよう」、と引き受けた。こうして沖縄県人会と出会いが始まり、仕事の最中でも県人会の用事や会議となると、ドアを閉めて出かけるという日々になってきたわけである。
 今では諸団体の「役員ブッター」になっている。1973年に書記となり、10年後には支部長も務めさせられるはめとなった。支部会館舞台の背景幕を7つも描いたことは今でも印象深い。

自分を省みて

 自分の来し方を振り返ってみると、この文章の冒頭に「沖縄出発の時から平穏ではなかったように思う」と書いたが、嵐の中に投げ出された船のように、カッペンに賭けた私達の希望と夢が、天と地の差の「地獄谷」につき落とされて血を吐くような日々を過ごしてきた。
 カッペンからカンポ・グランデ、そしてサンパウロ市ビラ・カロンに辿り着くまでの苦難の家族史は、とうてい言葉では語りつくせない。「運命の悪戯」とおもえるほどに最初から「平穏」ではなかった。
 しかし、この苦難の日々を私たちは、ハワイの奥原カマル叔母、喜友名徳太郎叔父ら親族と比嘉真繁、石川盛得さんらカンポ・グランデのウチナーンチュのチムグクルと志情に支えられ、助けられて乗り越えることができた。
 私は「イチャリバチョウデー」・「御万人の心」という言葉であらわされるウチナーンチュのチムグクルを、「カッペン移民」として夢と希望に敗れ、七転八倒の苦渋に満ちた人生史を通じて、身をもって体験し心に刻んだ。これは、私の大きな心の財産である。
 私は、いつの日からか三線を手習い始め、今では野村流古典音楽保存会の師範免許を授けられているけれど、「平穏」ではなかった日々が、哀調と志情の、そして荘重な調べを響かせる琉球音楽におのずと誘い入れたのではないか、と常々思っている。
 音楽仲間や沖縄県人会の心から語り合える友を得て、またわが生まり島・ユンタンザンの親族・郷友の親愛の情に包まれながら、今を生きている私は、つくづくブラジルに移民してよかったと思う。

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