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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第6回=家族にもタブーだった裁判

次男イサク(二世、当時77)とその妻節子さん(2011年4月16日撮影)

次男イサク(二世、当時77)とその妻節子さん(2011年4月16日撮影)

 暁星学園同窓会から岸本昂一について調べ始め、次々に興味深い事実が浮かび上がってきた。取材した卒業生は「岸本先生は永住論者、認識派だった」と口を揃えた。
 ところが54年頃からパ紙で記者をしていた若松孝司さんは岸本の雑誌『曠野の星』に関し、「相当程度、影響力のあった雑誌だった。特に地方部の戦前移住者に対して。編集部内では、民族色の強い彼の主張に対して抵抗があり相手にしなかった」と記憶する。
 47年4月からパ紙、その後は日伯毎日新聞の記者をしていた水野昌之さんに、編集部内での岸本の評判を聞くと「どちらかといえば勝ち組と見られていた」と思い出す。特に、パ紙編集の実務を統括していた中林敏彦デスク(後の日毎社長)が嫌っていた。ピニェイロス地区担当の八巻倍夫記者がいくら暁星学園の記事を書いても中林はテコでも掲載しなかった。
 水野さんは言う。「中林さんは八巻が書いた原稿を僕の方に投げてきて、『これどう思う?』って聞くんだ。八巻と中林さんの板挟みになって辛かった」。後に日毎が創立された時に水野さんと二人で移籍した仲だ。八巻さんは暁星学園卒業生で岸本に私淑していた。水野さんは八巻さんに連れられて2度ほど岸本に会った。「教育者然としていてキザな感じがした。私は好きではないが、八巻くんは『人格者だ』と崇拝していた」と思い出す。
 岸本は暁星学園から千人以上の教え子を送り出し、雑誌『曠野の星』を計23年間も刊行し、8册の著書を世に送り出した。終戦直後の混乱期から安定期にいたる日系社会の世論に大きな影響を与えていたに違いない。
   ☆   ☆ 
 2011年4月16日、サンパウロ市南西部の自宅で岸本昂一の次男イサク(二世、当時77)とその妻節子さん(旧姓=国枝、二世、プレジデンテ・ベルナルデス生まれ、72)を取材すると「あの頃、家族は大変でした。だから、裁判の話は家族の中であまりしたがらなかった。当時からその時のことは誰も喋りたがらなかった」と説明した。その事件は家族にとり深刻なトラウマになっていた。
 誰が岸本を告発したのか知っていますか―との問いに「分かりません」と答えた。裁判の書類も何か残っていないかと尋ねたが、見事に何もなかった。DOPSから国外追放裁判にかけられるという事態に対し、本人は覚悟を固めていたのだろうが、家族は家長を信じて見守るしかなかった。
 岸本は永住論者であり、早い段階で帰化していた。しかも6人のブラジル国籍の子供がおり、兵役に行った者もいた。そのような人物を国外追放するためには、まず岸本の帰化権を剥奪し、その上で国外追放という処分となる。その帰化権剥奪が裁判の主題だった。
 現在でもブラジル生まれの子供がいれば普通、親が外国人でも強制退去はさせられない。帰化権を剥奪してまで―というのは尋常ではない。よほどの〃危険人物〃と思われたようだ。(つづく、深沢正雪記者)

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