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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(48)

1933年の予定市街地。鉄槌の音があちこちに響き始め、板小屋が立ち始めた(『トレスバラス移住地五十年史』8頁)

1933年の予定市街地。鉄槌の音があちこちに響き始め、板小屋が立ち始めた(『トレスバラス移住地五十年史』8頁)

 次いで、もう一カ所、候補となったのがトゥレス・バーラスであった。当時、北パラナは豊饒な大地が無限に広がる開発前線として、世の関心を惹き付けていた。梅谷は興味を抱いたが、日本へ帰国の日時が迫っていた。ために後を武石に任せた……と、そういう経緯で、前記の現地入りとなったわけである。
 武石の調査の後、連合会はこの土地を購入した。面積は1万2500アルケーレスあった。「トゥレス・バーラス移住地」と名付けた。ただし、この時購入したのは、トゥレス・バーラスの全部ではなく、三分の二であった。
 なお「移住地」というのは、当時の一般的用語で言えば植民地=集団入植地=のことである。連合会は、この時、植民地という言葉の使用を止め、代わりに「移住地」とした。これは、当時、日本で「植民地という言葉には、自国の領土化した海外の土地という意味があり、不適当」という説が唱えられていたためである。
 連合会は、翌年、サンパウロ市内に現地法人ブラジル拓殖組合、通称ブラ拓を設立、直ちに移住地の建設に着手した。が、暫くはバストスとチエテに掛りきりになっていた。トゥレス・バーラスに手をつけたのは1932年である。その、さらに4年後、ブラ拓はトゥレス・バーラスの残りの三分の一も買い増して計1万8、610アルケーレスとした。4万5036ヘクタールである。
 当時、移民が自力で造っていた植民地に比較すれば、桁違い……それも二桁以上違う規模であった。
 ついでながら、三本の金塊は、結局、発見されなかった。今もなお何処かに眠り続けているかもしれない。


「良い親分だった」

 トゥレス・バーラス移住地の支配人には、リベイロン・プレット地方のカフェザールで、労務者の監督をしていた斉藤幸という人物が起用された。斉藤は1932年4月、職員一名と人夫数名を伴い現地に向かい、サンパウロ─パラナ線のセント・ビンチ・シンコ駅で下車した。この時点では、ここが最終駅であった。(直後、ジャタイまで通じたが……)
 斉藤は、同地の──前章で名の出た──山口商店の山口栄に、ブラ拓本部と移住地の中継基地の役目を依頼した。山口は快諾した。
 数日後、斉藤たちは移住地入りした。そこでは、すでに専門の業者による測量が進められていた。原始林の中を通り抜ける一筋のピカーダ(小径)があったので、これを利用して行われていた。左右から伸びている枝葉を伐り払いながらの難儀な作業だった。
 斉藤は、ブラ拓の仮事務所を、移住地内の西側の中間地点に置くことを決めた。そのための森林伐採……つまり山伐りを、やはり専門業者に発注した。これも前章で名の出たセント・ビンチ・シンコの西村組の西村市助である。
 請け負った西村は、日本人の人夫とブラジル人カマラーダ数名を率いて、トゥレス・バーラスに向かった。到着後、前記の西側・中間地点で、最初の斧を入れた。これが、1932年5月1日である。以後、この月日が入植記念日となった。今年で83年になる。因みに、ここはペローバ区と命名された。先に名の出た砦の跡がある処である。

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