ホーム | 日系社会ニュース | サンパウロ市議会で120周年式典=移民史再考セミナーも=新しい視点から見直す=人種偏見と勝ち負け抗争
聖市議会での120周年式典(10日)
聖市議会での120周年式典(10日)

サンパウロ市議会で120周年式典=移民史再考セミナーも=新しい視点から見直す=人種偏見と勝ち負け抗争

 サンパウロ市日伯外交樹立120周年記念委員会(野村アウレリオ委員長)は10日、記念式典を市議会貴賓室で行い、画家の若林和男さん、在聖総領事館、市議会自ら等を顕彰した。翌日から2日間に渡って同議会内で日伯関係や日本移民史をテーマにした記念セミナー(平野セイジ元USP副学長企画)が開催された。11日午後6時、最初のセミナー「日本移民」の冒頭で平野氏は「これは120周年の成果を考える一連のセミナーであり、多角的に分析したい」と意図を説明し、勝ち負け抗争の背景を報道と学術の視点から3人が興味深い討論を展開した。

「日本移民セミナー」の様子

「日本移民セミナー」の様子

 日本移民史研究者の桜井セリアさんは「移民史の輝かしい部分は移民百周年の時に充分脚光を浴びた。今回はそのB面にも光を当てたい」とし、笠戸丸前後の国家形成期のブラジルエリートは、国民をブランキアメント(白人化)する方針からイタリア移民など欧州移民を中心にいれ、黄色人種の移住を禁止していた歴史を概説した。
 「日本人は同化不能とされ、二世が生まれても、連邦議会では『日本が侵略する可能性がある』との危機感を訴える演説がされ続けていた」との差別的時代背景の実態を明らかにした。
 大戦前後の日本移民史を調査・執筆しているエスタード紙の保久原ジョルジ論説委員は、「バルガス独裁による1937年の新国家体制以来、移民への抑圧は厳しいものになった。イタリア移民などに比べ、日本移民は独特過ぎた。この時代の伯字紙をひもとくと、日本移民に関して驚くべき表現が目立つ。報道の役割を考える時、扇動的であったと言わざるを得ない」と報道的観点から分析した。
 「特に臣道聯盟に関する記事は偏りが激しい。当時、日ポ両語に堪能で官憲に情報提供ができる人物は2、3人しかいなかった。そこからの情報が警察から発表され、情報源を持たない新聞はうのみにした記事を大量に流布した」と当時を分析し、代表的な見出しを羅列した。
 フォーリャ・ダ・ノイチなどで「日本のゲシュタポがサンパウロ市で組織された」「日本人狂信集団がテロをサンパウロ市に拡散させる」「自爆部隊が日本人暗殺目的でサンパウロ市に侵入」などの見出しが躍り、ある記事中には「この秘密結社は有名なKKKに匹敵する」との記述まであったと報告すると会場には苦笑が広がった。
 「日系の社会統合が進んだ現在の視点からすれば、当時の認識はまったくひどいものだった」「大量の訊問、調書の結果、臣道聯盟が直接これらの暗殺事件を指示したという証拠は結局出てこなかった」と結んだ。
 平野氏は「かつて黄色の肌は病的と一般的に見られていた。高名な学者フロレスタン・フェルナンデスの著書『白人社会に入った黒人』の有名な『ブラジル人には〃ブラジルには(人種)偏見がない〃という偏見がある』という言葉は、黄色人種にも当てはまる」とのべた。
 さらに平野氏は、遠隔地ナショナリズムを研究した米国人人類学者ベネディクト・アンダーソンの著書から「たくさんの国民は戦争で国歌を歌いながら死んでいった」との言葉を引用し、勝ち負け抗争は恥ずべき特異な出来事ではなく、グローバリゼーションという世界的な文脈から解き明かされる価値がある事例だと示唆した。

 

□関連コラム□大耳小耳

 USPの平野セイジ元副学長は、ブラジル人が持つ日系人への先入観の一例として、「私自身もUSPの中で似た経験がある。私の専攻は社会学だが、教授になった最初の頃、なぜ日系人が社会科学学部にいるんだと言われた。医学部や工学部じゃないんだ、と。それが当時の一般的な反応だった」と振り返る。日系人といえば法学や理系、職業でいえば弁護士、医師、技師という時代が長かった。音楽家、文化人、俳優、学問でいえば社会学や歴史、文化人類学では今も多くない。社会学を通じて学内の地位を固め、USP副学長にまでなった平野氏の存在はブラジル人にとっても異色だったようだ。

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