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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(62)

公民学園の学芸会記念(1950年7月、松本信代さん提供)

公民学園の学芸会記念(1950年7月、松本信代さん提供)

公民学園

 彼らアンシエッタ仲間は、家族単位でアサイに転住してきた。自然、地元の聯盟員と一つの小社会を構成した。この小社会の子供たちは、谷田の公民学園で学んだ。
 その生徒であったという人が、2015年現在、ロンドリーナ市内で健在である。前出の佐藤正信の娘、信代さんだ。筆者は二、三度会って、話を聞いた。
 1938年の生まれで、アサイに来たのは1949年、11歳だった。12歳で公民学園へ入り、日本語、修身、体育その他を学んだ。生徒数は50人くらいだった。学園には校庭があり、運動会も開かれた。天長節や紀元節を祝い、日の丸を掲揚、御真影を拝し、教育勅語を奉読した。
 谷田は、学園ではポルトガル語を教えることを禁じ、生徒が他所にポ語を習いに行くことも嫌った。
 これだけで、どういう学園であったか瞭然とする。谷田はサンパウロ州のDOPSの弾圧で壊滅した臣道聯盟の精神、計画を継承しようとしていたのであろう。
 臣聯は戦勝説をとり、その綱領で「我等ハ大日本帝国臣民ナリ」と唱え、「我等ハ大東亜建設ノ翼賛ヲ期ス」と長期的目的を掲げ、そのために「我等子弟ヲシテ皇国民トシテ練成センガタメ日本語教育ニ努力シ」と当面の方針を明示している。
 公民学園の開設と教育内容は、これと一致する。
 谷田がアンシエッタ仲間を招いたのは、臣聯の空気を、アサイの同志やその子供たちに吹き込みたかったからであろう。さらに自分と志しを共にして欲しかったに違いない。
 ただ、疑問を覚えるのは「公民」という学園名である。なんとなくシックリしない。谷田は、おそらく「我等子弟ヲシテ皇国民トシテ練成」の部分を引用「皇民学園」としたかったのであろう。が、敗戦派や州政府学務局の目を意識して、便宜的に「皇」を「公」にしたのではあるまいか。時期が来たら「皇」に変更するという含みで……。(当時、日本語教育は、原則として禁止されていた。まして皇民という言葉など使ったら、問題化されることは必定だった)
 ポ語を排したのは「大東亜建設のため、子弟は皆、日本へ帰るのであるから不要である」と判断したからであろう。またその純粋に日本人としての心に、迷いが生じることを警戒したためであろう。
 しかし、ポ語を知らなくては、日常、何かと不便である。信代さんは、学園の数人の友だちと、家庭教師からポ語を学んだという。
 彼女は若くして結婚したが、生まれた子供も公民学園へ入れた。


最高裁長官、大統領へ訴え続ける

 製材業を営み、公民学園を主宰する一方で、谷田才次郎は、同志の日本への帰国を具体化しようとした。
 が、役所相手の出国手続きが難航した。業を煮やした谷田は、彼らしい行動に出た。最高裁長官や大統領に、直訴状を送ったのである。
 直訴状は、同じ臣道聯盟本部の理事であった河島作蔵(ルッセリア)たちと連名で行った。彼らも、日本へ帰国しようとし、谷田と同じ目に遭っていたのである。
 最高裁長官への直訴状をみると、筆頭署名者が河島、二番目が谷田、三番目が佐藤正雄となっている。
 これを含めて計43名が署名しているが、その内12名がアサイ在住者で、他はルッセリア、アンドラジーナ、バッレトス、ミランドポリス、アルバーレス・マッシャード、プレジデンテ・プルデンテ、プレジデンテ・ベルナルデスなどである。かなり広範囲の人が連絡をとりあっていたことが判る。

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