ホーム | 特集 | 新年特集号 | 2016年新年号 | ペレーが日系人に寄せる厚い信頼=バウルー二世クラブで育つ=58年W杯初優勝の思い出の写真=日系女性で始まり終わる
中川芳則さん(左)とペレー(58年頃、ロンドリーナ市内で撮影)
中川芳則さん(左)とペレー(58年頃、ロンドリーナ市内で撮影)

ペレーが日系人に寄せる厚い信頼=バウルー二世クラブで育つ=58年W杯初優勝の思い出の写真=日系女性で始まり終わる

 1958年サッカーW杯でブラジル代表は開催国スウェーデンを5対2で退け、初優勝を飾った。歓喜に沸く国内では、凱旋する選手団を招いて祝勝会を各地で開き大騒ぎをした。特に決勝での2ゴールを含む6得点を決めて大活躍のペレー(当時17歳)は人気が高く、彼の周りにはいつも黒山の人だかりができていた。そんな最中、パラナ州ロンドリーナで撮影された写真には、特別扱いでペレーとともに写る日本人の姿があった。

 北パラナのロンドリーナにも、セレソンは凱旋訪問した。1958年当時、地元の日本語ラジオ放送のDJを務めていた中川芳則さん(当時30歳、87、二世)は、取材のために祝勝会を訪れた。「会場には他に日本人なんて誰もいないから、私は凄く目立った」。サッカーという世界では、日本人は少し浮いた存在だった―と思い返す。
 しかし、人ごみの中で中川さんの顔を見つけたペレーは、なぜかすぐに手招きして呼びつけて握手をし、快く写真撮影にまで応じた。もちろん、ペレーとは一面識もない。「当然、まわりにいるブラジル人は、みんなペレーと握手して写真を撮りたいのに、それを寄せ付けず、なぜか日本人だけを呼んで特別扱いした。それが不思議でならかったんですよね」と振りかえる。

ペレーと長澤さんとドンジーニョ

ペレーと長澤さんとドンジーニョ

 中川さんはそれから数十年間、疑問を抱き続けた。だがペレーが少年時代を過ごしたサンパウロ州バウルーの名士、故・長澤信二さんの自伝『ブラジルに六十年』(長澤信二、1991年)から、その謎を解き明かすヒントを得た。長澤さんは1911年3月に栃木県栃木市に生まれ、1929年にサントス丸で渡伯した。「バウルー製麺所」の共同経営者で、ノロエステ線の邦人実業家の代表的人物といわれた。バウルー日伯文化協会理事長、生長の家講師などを歴任した重鎮だ。

バウルーの二世との絆

 ペレーは1940年にミナス・ジェライス州トレス・コラソンエスで生まれるが、同じくサッカー選手だった父ドンジーニョが、「バウルーAC(BAC=バッキ)」に入団したため、44年に同地に移り住んだ。
 ドンジーニョは引退後、長澤さんが理事を務めていたバッキのライバルチーム「ECノロエステ(ECN)」でコーチを務めた。しばらくしてその職すら失い、生活に困り衛生局のカフェー係や郵便局の使い走りで生計を立てた。
 サントス市のペレー博物館(Museu Pele)には、そんな貧乏時代、10歳当時のペレーの最初の仕事、靴磨きで得た400レイスの硬貨が展示されている。見かねた長澤さんは、日系二世チーム「ニセイ・アトラチコ・クルベ」のコーチ職をドンジーニョに依頼した。
 長澤さんの自伝の3章「ペレー選手の発見」では、「練習や試合後の毎週日曜日には必ずシュラスコをして、ドンジーニョ家族も招待した。食べ物に十分でなかった貧しい家族には、日本人と一緒に食べるシュラスコがどんなに嬉しかったと思うのである」と回顧している。そんな環境の中で、ペレーは育った。
 長澤さんの娘、田中長澤宏枝さん(70、二世、ロンドリーナ在住)は、「当時はまだ黒人への差別も残っていた時代でしたが、ペレーが必死に練習していた姿を覚えています。家族全員が上品な人だったように思います」と話した。
 当時、ペレーはバッキの下部組織に所属していたが、既に天才少年として有名で、ECNでも数試合プレーするなど各チームで引っ張りだこになっていた。長澤さんは正式に契約しようとドンジーニョに直談判。「月4コントス」で話がついていたが、56年に名門「サントスFC」へ引き抜かれ入団した。それ以後は知られる通り、通算438試合474得点をあげ、代表では常に10番を背負い、3度W杯優勝へ導き、今もって「サッカーの王様」と呼ばれる。
 「世界のペレー」への階段を上り始めていた最初のステップが、58年のW杯優勝。17歳だった彼にとり、バウルーの思い出はつい最近のものだった。そんな日本人との関係の深さゆえに、中川さんへの好意的な行動に繋がったようだ。

初恋は2歳年上の二世

 ペレーの初恋の相手、上原ネウザさんは有名だ。マウリシオ・デ・ソウザの漫画『モニカと仲間たち』のキャラクターにもなった。地元バウルーの新聞「ジョルナル・ダ・シダーデ」07年12月1日付電子版によれば、ペレーがサントスに引っ越しをする直前、自分の写真を渡しながら、「僕はここを出る。でも、僕の愛と情熱をこの写真に託して置いていくよ」と初めて告白した。彼女は17歳、ペレーは2歳年下だった。《17歳の頃かしら、皆でよく少年サッカーの試合を見に行ったわ。ペレーと私の兄は一緒にボールを蹴っていたから》。
 1958年、ペレーがセレソンに選ばれた時、《あの頃、彼はサントスからたまにバウルーに来たとき、最初に会いに来たのが私だったのよ。彼は「僕はセレソンに選ばれた。君が僕の恋人だって、みんなに言うよ」って言うのよ》。
 でも遠距離恋愛は続かなかった。ペレーにサントスで恋人ができたことを、マスコミを通じて知り、ネウザさんから別れると言い出した。彼女は親の薦めに従い、日系人と結婚し子宝にも恵まれ、バウルーに住み続けた。

看取るのは日系女性に

 ヴェージャ誌2012年12月10日号でペレー(当時72歳)は、現在の妻、青木シベーレ・マルシアさん(当時47歳)とのなれそめを語っている。1980年、ペレーが米NYのチームでサッカーをし、最初の妻や子らと一緒に住んでいた時代、留学中のマルシアさんと、アラブ系実業家のパーティで知り合った。最初から話が合い、「いい雰囲気になりかけた」が、その時はそこから先には進まなかった。
 2008年にサンパウロ市内にペレーが借りていたアパートのエレベータで二人は偶然再会した。その時、ペレーは離婚した後だったが、マルシアさんには夫がいたので、彼女は「ちょっと話をしただけ」。同記事によれば、2011年前半にまた同じエレベータで会った。この時、彼女は離婚しており、「アパートを改修中なの。ちょっと見に来ない」と誘った。ペレーは「それがきっかけで絆を結んだ」と笑った。
 マルシアさんいわく、「彼のどんなところを気に入ったと思う? 家の中を掃除していると、彼は一緒にしてくれるの。お皿を洗う時もそう。家の居間ではピッタリくっついて社交ダンスを踊る、そんな彼が最高」とおどける。
 日系団体のイベントでは、今でも全員で後片付けをする光景が普通に見られる。一般社会にはない、皆で一緒に掃除をするなどの習慣は、バウルーの日系仲間の中で人格形成し、初恋が日系女性だったペレーならではのものか。ペレーは「僕らの愛は運命的。僕の初恋は日系女性だったが、最後もそう」との言葉で同記事は締めくくられた。

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