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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(76)

ハンセン病患者の救済に献身

 この佐々木神父、どういう人なのだろうか?
 1930年、浜松市に生れた。家族は曽祖父の代からカトリックの信者だった。母方の祖父と叔父は歯科医で、無料奉仕でハンセン病患者の歯の治療をしていた。そういう話を母親から聞きながら育った。
 大東亜戦争で浜松は焼け野原となり、自宅も全焼、10平方メートルの部屋に8人の家族で住んだ。
 15歳で陸軍の幹部候補生となり、入隊した。兵舎で早朝、上官に呼び出され「天皇陛下とキリストのどちらが上か」と追及されたことがある。黙っていた。終戦で軍隊生活は直ぐ終わった。
 1955年、25歳でカトリックの司祭になった。1958年、横浜の司教区に居た時、ロンドリーナの司教からバチカンを通して「日本人移民の信者のために、同胞の神父を招きたい」という連絡があった。ほかに志願者が居なかったので、応募した。 ロンドリーナで12年間、布教に当たり、コルネーリオ・プロコッピオの教区に移った。ある年のセマナ・サンタ、サンジェロニモの教会へ手伝いに来た。道で偶々、腕に包帯を巻いている住民に会った。ハンセン病患者と判ったので、訊くと「コブラに噛まれた」と答える。しかし彼が恥じて、そう言っていることは明らかだった。
 そこで、この地域を調べ、1カ月で120人の感染者を見つけた。彼らはサッペ小屋に住み、貧しく暮していた。ハンセン病に関しては、少しの知識しかなかったが、この町に住み、彼らの治療に当たることにした。
 そのために、まず住む場所が必要だった。自分の所持品を売って土地を買おうとしたが、足りない。日本の家族に手紙を書くと、送ってくれた。町外れに土地を買い、小さな家をつくった。
 次に、ブラジル国籍を取得、ロンドリーナ州立大学の社会福祉科に学んだ。この仕事をするためには、いずれ、そういう資格を要求されると思ったからである。
 さらに、この事業の運営団体として、フマニスタ慈善協会というものを設立、診療所を建てる資金を募った。米国在住のベルギー人神父が現れ、その仲介で資金が得られ、診療所ができた。
 以後、次の様に事業を進めた。
 専門の医師を見つけ診療を始める一方、運営費を捻出すべく、協力者を探した。日本やブラジルの──ハンセン病を無くそうとする──民間団体や篤志家から援助が寄せられた。ドイツの団体が寄付してくれたこともある。現在は、プロポリスを日本に送って経費の足しにしている。
 訪日の折、大阪大学の教授でハンセン病の権威、伊藤利根太郎博士に会い、説得して一カ月来て貰った。博士は、その知識を診療所の医師に伝えてくれた。長崎純心聖母会のシスターを招くこともできた。彼女らは重症患者の発する悪臭に堪えてくれた。
 ハンセン病は不治の病ではなく、重症でも半年から1年で完治する。癌の方が怖い。しかし今もなお、社会的な偏見が残っているため、診療所は皮膚科として開いている。患者は、すべて皮膚科のそれとして扱う。従って誰がハンセン病であるかは、一部の医師と職員以外は知らない。
 診療所にハンセン病患者のカルテは1800通ある。つまり、これまでに、それだけの患者を診たということである。ここに患者を送ってきたムニシピオは70を数える。
 施設は、今では敷地が27アルケーレスに広がっており、診療所の他、ラボラトリオなどの施設もある。麻薬・アルコール依存症の患者の更生施設もあって、我々が行くと、数人の入所者がいた。様子は普通の人と変わらなかった。
 佐々木神父は、診療所に必要な顕微鏡を、皇太子殿下に頼んで、日本から運んで貰ったこともある。
 筆者は浜松市の出身である。神父が同じだと知り、思わず「郷里の誇りだ!」と言うと、自分の肩を叩き、埃を払う様な身振りをしながら「こちらのホコリだろう……」と破顔一笑した。
《五章=参照・引用資料》トゥレス・バーラス移住地二十五年史(同青年連盟編)、トゥレス・バーラス移住地五十年史(同編纂委員会)、カビウーナ区六十年の歩み(同編纂委員会)、クラウジオ・セト、マリア・H・ウエダ共著『武士道Ⅱ』『歩み』

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