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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(84)

 ロッテは、すべて小農用だった。大農用のロッテはなかった。一人の買い手が複数のロッテを買う場合は、数を制限した。多数の小農業者向け分譲が眼目であったからだ。その方が会社としても効率的だった。
 ロッテは全て、高地の分水嶺から低地へ、なだらかに傾斜して行く様に設計した。上の方ではカフェーを植え、間作に穀物を栽培し、下の方では住宅を建て、果樹や蔬菜を育て、家畜を飼うようになっていた。ロッテの内部には必ず流水があり、前面は道路に接していた。
 市街地は、できるだけ、農場用ロッテの入植者に、便利な場所を選んだ。土地は高燥で多少傾斜していることが望ましかった。衛生と排水のためであった。
 そこで分譲される商店用ロッテには、無論、庭や居住用のスペースもあった。
 農場用、商店用を含めて、ロッテ販売の見込み客の中には、外国人が多かったので、会社はイタリア人部、日本人部、ドイツ人部……を設けた。同国人は集中して居住する様にした。人種別に隔離したのではなく、生活習慣の違いを考慮したものであった。
 ロンドリーナ植民地のロッテの販売は、農場・商店用とも順調であった。サンパウロ―パラナ線が、ここまで延びてきた1932年には、すでに150軒以上の家屋があった。この年、内戦があり、生活必需品の欠乏などで危機に陥ったが、住民の必死の努力で乗り切った。
 家屋数は、1933年には400軒、1934年には600軒となり、早くもムニシピオに昇格した。1935年には、第一期計画の3万アルケーレスを、売り切っていた。
 会社は以後も、周辺に新しい植民地を次々造成した。1937年、住民は農場地帯2万人、市街地1万人、併せて3万人となっていた。これが1942年には推定で10万人となった――というから、物凄い膨張ぶりであったわけだ。なにしろ近くに建材産業が起こったほどであった。
 1942年までのロッテ販売は、計8千となった。購入者はブラジル人が半分余を占め、イタリア人10%、日本人8%、ドイツ人7%……で、国籍は計33カ国を数えていた。
 日本人は636ロッテであった。
 第2次世界大戦中は、連合国側の英国・ブラジル人、枢軸国側のイタリア・ドイツ・日本人が、同じ植民地に住んでいた。しかし、格別の確執は起きなかった。そういう具合に、北パラナ土地会社の幹部や入植者の中の世話役が、指導したという。
 北パラナ土地会社はロンドリーの西方にも、植民地を次々と造って行った。入植が始まると、そこに鉄道を延した。すべての植民地に役立つ様に配慮したため、曲りくねって敷設された。主な駅名を上げると、カンベー(当時の名はノーバ・ダンシン)、ローランヂァ、アラポンガス、アプカラナ、ジャンダイア(同ロバト)、マンダグアリ、マリアルバ、そして北パラナの西端近くのマリンガーである。
 無論、すべてが順調に行ったわけではない。鉄道工事は遅延した。1935年カンベー、1936年ローランヂァまで延びたが、しばらく休止した。1941年アラポンガス、アプカラナまで延び、また休止した。

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