ホーム | 連載 | 2016年 | 県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱 | 県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第21回=戦前から盛んだった洗濯屋

県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第21回=戦前から盛んだった洗濯屋

強烈な太陽光だけで水分が蒸発し固形になっている塩田

強烈な太陽光だけで水分が蒸発し固形になっている塩田

 3月14日、大谷農場を後にした一行は、国内で作られる海水を原料とする塩の97%が生産されている北大河州の海岸部にある塩田を訪れた。
 州塩生産組合会長でもある市観光局長のレナト・フェルナンデスさん(53)自ら、一行のガイドを務め、「1千リットルから275グラムの塩ができる。年800万トンを生産し、米国やカナダにも輸出している。彼らは冬に道路が凍結した時、これをまいて解凍させている」と説明した。
 バスのすぐ横には巨大な原塩のボタ山。じりじりと照り付ける太陽光は半端でなく強い。空調が効いたバスた瞬間、まるでフライパンの上に置かれたような熱気を感じた。それゆえに、メロンも早く甘くなるのだろう。
 「昔は塩を運ぶのに金属製のカサンバ(荷台)を使っていたので、半年でボロボロになった。今はグラスファイバーなので長持ちする」などとまくし立てるようにしゃべった。
 日本だと普通は、ある程度まで加熱沸騰させて水分を飛ばして、海水塩を作るのが普通だ。ここでは灼熱の太陽がすべての作業をする。この土地でメロンを作ることの特種さ、すごさを、改めて痛感させられる塩田の光景だった。
   ☆   ☆   
 昼食時に、たまたま座った一行の北原博子さん(88、京都)は「試食したメロンが凄くおいしかった。実家も昔はメロンを作っていたけど、300へクタールはすごいわね」とたまげた様子だった。

北原博子さん

北原博子さん

 北原さんの夫徳美さんからは以前、戦中戦後や洗濯屋時代の話を取材させてもらった。戦争直後、荒廃した日本には帰る場所がないとあきらめた戦前移民は、「祖国に帰るのが無理なら、せめて子供に教育を授けるべき」と大学のあるサンパウロ市に次々に出てきて、資本が無くても家族で始められる洗濯屋になったという話を聞いていた。
 今回、博子さんからは「戦前にプロミッソンで洗濯屋の見習いをして、兄と二人で開業した。あの町だけで日本人が4軒、リンスにはもっとたくさんあった。私たちに3カ月かけて教えてくれた人は、店を私たちに譲って、リンスで新しく構えた」との話を聞いた。てっきり日本人が洗濯屋を本格的に始めたのは戦中戦後だと思っていたので、〃移民の故郷〃ノロエステ線では「戦前から日本移民が生業にしていた」との話は興味深いものだった。
 博子さんが17歳の時なら終戦の年、1945年のはず。「当時、日本人は農業ばっかりの頃。背広や帽子を使うようなお得意さんは、役所勤めや銀行員のブラジル人ばっかりだった」。
 博子さんは6歳で家族と渡伯し、最初はモジアナ線に入った。「ブラジル人から原始林開拓を請け負って、森を切り開き、その代わりに3年間は米や棉を作って自分のものにして良いという契約。ブラジル人はそのあと牧草地にした。アラサツーバとかグアラサイーの近くとか。3年経ったら別の原始林開拓に移る。そんな生活を4、5回やりましたよ。小さい時からずっと原始林で生活していたから、学校なんて行ったことない。大きな植民地なら日本語学校もあるけど、私の場合は開拓地ですから、ただの山猿ですよ。日本語の夜学に1年間だけ通いましたけど」と謙遜した。
 聞けば聞くほど、すごい幼年期だ。「棉の消毒が大変なんです。背中にタンクを担いで重いし、消毒液が身体にも良くない。それで、町に出て洗濯屋になろうと兄と話し合ったんです」という。
 5年ほどプロミッソンで洗濯屋をし、1952年、24歳で徳美さんと結婚し、最初はスザノ市でアルファッセ作りをしたが、思うようにいかず、以前やっていた洗濯屋をサンパウロ市でも始めたということだった。
 洗濯屋はノロエステで戦前から日本人の職業となっており、それが日本人の大量出聖と共に一気に広まった。このような話の積み重ねで、移民史が作られてきたと実感する。(つづく、深沢正雪記者)

image_print