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県連故郷巡り(北東伯編)=歴史の玉手箱=第25回=ナタルにもいたコチア青年

野溝稔さん

野溝稔さん

 ナタルでは珍しい60代の一世、野溝稔さん(のみぞみのる、68、長野県)は13歳の時、1961年にあるぜんちな丸で家族と共に渡伯した。「ナタルで一世は全部で10人いるかどうか」という。
 最初はサンパウロ州ジャカレイに入植し、サンタイザベルにも住んだ。16年前にナタルから30キロ離れた町でココナッツ加工品「Haibiska」を製造する会社「Rurococo」社を経営している。「ここは気候がいい。寒くても20度だよ。雨、雷がない。この16年間で雷は4、5回しかない。夏でも乾燥していて涼しい」と語った。

田中ユミコさん

田中ユミコさん

 交流会ではピウン出身、田中家の田中ユミコさん(66、東京都)も「1956年に6歳で来た。両親はピウンで大変な苦労をしながら、私をナタルの町にやってブラジル式の教育を受けさせてくれ、心から感謝している。以来60年間住んでいる」とポ語で自己紹介した。

 ナタルでもコチア青年に遭遇した。請井正治さん(うけいまさじ、79、静岡県)は1期16回で、1957年1月に渡伯したという。

請井さんと妻町子さん(62、愛媛県)

請井さんと妻町子さん(62、愛媛県)

 7人兄弟の3男として浜松市に生まれた。「うちのすぐそばから本田技研が始まったんだ。小学校の頃、たくさんカブが走っていた。僕がこっちに来てから浜松は発展した。実家は農家で、桃やビワなどの果実を生産していたが、広いブラジルへ行こうって思った」。
 最初はソロカバのパトロンのところで4年間、ミカン作りをし、次にフォルタレーザに1年、65年からナタルに50年間ずっと住んでいるという貴重な戦後移民だ。
 「ナタルに来た頃、ピウンやプナウなどの植民地を回って、農業生産物の仲買い、卸しをやっていた。野菜やトマトだね。白菜とかナス、キューリは誰もナタルでは誰も食べないから、レシフェに持って行った。でも今じゃ食べるよ。とは言っても、60歳以上の人は今でも食べない人が多いけど」と分析する。
 結婚してから一時期、プナウ植民地に住んでいたという。「その頃はプナウに16軒もあったのに、今じゃ、北山さんの兄弟1軒きりになってしまった。主力作物は最初にバナナ、次にマモンが多かったかな。でも病気が入って、新聞に騒がれて、政府の役人が20人ぐらいきて、全部放置させられた。それからゴヤバ、マラクジャ、リモンになった」と振りかえる。最後に「もっと農業技術を持った日本人にやってきてほしい。ここにはチャンスがある」と薦めた。
 2時間ほどで一行は交流会を終え、最後に「ふるさと」を全員で合唱して会場を後にした。

吉久覚さん

吉久覚さん

 一行の吉久覚さん(さとる、77、三重県)=ボイツーバ在住=は、「ピウン植民地では相当苦労されたようだね。作ったらできる、でも売れない、食べてくれない。わざわざレシフェまで売りに行くとはね」と同じ農業者らしく深く同情の念を抱いたようだ。
 妻の綾子さん(71、二世、チエテ移住地)も「サンパウロでも大変だったけど、こちらでも苦労しているね。私らもお父さん、お母さん苦労したからね。野菜がなくて、でも野菜を食べたいからってカルルー(雑草)まで食べたって言っていた。みそ汁に具がなくて、お父さんが『こりゃ、てっぽう汁だ』と笑っていたのを覚えているわ」と頷いた。移民同士だからこその共感が故郷巡りには溢れている。(つづく、深沢正雪記者)

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